【本ページはプロモーションが含まれています】

捨てがまり海外の反応を徹底解説!世界が震えた壮絶な戦いとは

スポンサーリンク



関ヶ原の戦いにおける島津軍の「捨てがまり」。その壮絶な撤退戦は、400年以上の時を超えて語り継がれる日本の戦国時代屈指の伝説です。しかし、この特異な戦術は、海を越えた異文化の人々の目にはどのように映るのでしょうか?本記事では、「捨てがまり」の実態から、それを可能にした薩摩隼人の精神、そして現代における海外の反応まで、深く掘り下げて解説いたします。

目次

1. はじめに:関ヶ原の戦いと島津軍の窮地 – 「捨てがまり」前夜

戦国時代の終焉を告げ、その後の日本の歴史を大きく左右した関ヶ原の戦い。この天下分け目の決戦において、島津義弘率いる島津軍は絶体絶命の窮地に立たされます。その状況こそが、後に語り継がれる壮絶な撤退戦術「捨てがまり」を生み出す直接的な背景となりました。一体、島津軍はどのような状況に置かれていたのでしょうか。

1-1. 天下分け目の決戦、関ヶ原:島津義弘、西軍に与すも兵力わずか1,500の苦境

慶長5年(1600年)10月21日、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で、日本の歴史における最も決定的な戦いの一つが勃発しました。この戦いは、長く続いた戦国時代の混乱に終止符を打ち、その後260年以上にわたる徳川幕府による泰平の世の礎を築くことになります。この天下分け目の大戦で、九州の雄・島津義弘は、豊臣方の石田三成が率いる西軍の一翼を担いました。しかしながら、関ヶ原の地に集結した島津軍の兵力は、驚くほど少数でした。兄である当主・島津義久からの増援が遅れたことも影響し、義弘が直接指揮下に置くことができた兵は、わずか1,500名程度であったと伝えられています。これは、数万の軍勢を擁する他の有力大名たちと比較すると、あまりにも心許ない数字であり、島津軍が置かれた苦境を如実に物語っています。

島津義弘が西軍に与した理由については、いくつかの説が存在します。その一つとして、徳川家康方が保持していた伏見城への入城を拒否されたという屈辱的な経験が、義弘の決断に影響を与えたという見方があります。また、より新しい研究では、義弘が当初から石田三成と連携し、西軍の主要メンバーとして積極的に行動していた可能性も指摘されています。

九州の有力大名である島津氏は、地理的にも中央政権から遠く、当時の緊迫した政局に関する情報収集や同盟戦略において、畿内の大名たちと比べて不利な立場にあった可能性は否定できません。家康と三成の間で繰り広げられていた情報戦や調略戦の中で、島津氏が必ずしも十分な情報を得ていたとは考えにくい状況でした。伏見城入城拒否の一件も、徳川方との意思疎通の不足や、島津側の真意が正確に伝わっていなかった結果である可能性も考えられます。結果として、西軍に加わったものの、関ヶ原の戦場では十分な兵力を動員できず、孤立に近い状況に置かれたことは、中央政局への関与の難しさと、地方勢力としての限界を浮き彫りにしたと言えるでしょう。

さらに、島津義弘個人は朝鮮出兵などで「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と敵国からも恐れられるほどの勇猛な武将であり、その武名は広く知れ渡っていました。しかし、島津家全体としての戦略と、義弘個人の戦場での判断が常に一致していたわけではなかったようです。当主である兄・義久が関ヶ原への増援に消極的であった背景には、中央の争乱から距離を置き、本国九州の守りを固めたいという島津家全体の戦略があったのかもしれません。家中の権力闘争が義弘の立場を弱め、結果として少数での苦戦、そして後の「捨てがまり」という極端な戦術選択に繋がった遠因の一つとも考えられます。

表1:関ヶ原の戦い 主要部隊兵力比較(推定)

主要武将 推定兵力 備考
東軍 徳川家康 約74,000 総大将
東軍 福島正則 約6,000  
東軍 井伊直政 約3,600  
東軍 本多忠勝 約500  
西軍 石田三成 約5,700 西軍の中心人物
西軍 宇喜多秀家 約17,000  
西軍 小西行長 約4,000  
西軍 島津義弘 約1,500 西軍に属するも兵力は極めて少数
西軍 小早川秀秋 約15,000 当初西軍、後に東軍へ寝返り
西軍 毛利秀元・吉川広家 約16,000 戦闘に参加せず

(注:兵力については諸説あり、上記は一例です。)

この表からも、島津軍が関ヶ原においていかに兵力的に劣勢であったかがお分かりいただけるでしょう。この圧倒的な兵力差が、後の壮絶な「捨てがまり」という戦術選択の背景にある重要な要素となります。

 

1-2. 戦況不利、孤立する島津軍:なぜ島津軍は動かなかったのか?最新研究から見える真実

関ヶ原の戦端が開かれても、島津義弘率いる1,500の兵は、当初積極的に戦闘に参加する姿勢を見せませんでした。西軍の総大将格である石田三成から再三にわたり出撃の要請があったにもかかわらず、義弘はこれに応じなかったと伝えられています。この島津軍の不可解な「不行動」は、後世になって様々な憶測を呼び、その理由について活発な議論が交わされてきました。

一般的な説としては、石田三成の指揮や戦略に対する不信感、あるいは自軍の兵力が極めて少ないことから積極的な行動を控えた、戦況を見極めるための戦術的な意図があった、などが挙げられます。実際に、石田三成が島津義弘の提案した夜襲策を「卑怯で不名誉である」として退けたという逸話も残っており、両者の間には戦術思想における根本的な隔たりが存在した可能性がうかがえます。このような戦略認識の不一致やコミュニケーションの不足が、西軍全体の連携を阻害し、結果的に島津軍をより一層窮地に追い込んだとも考えられます。

しかし、戦況は島津軍の思惑とは裏腹に、西軍にとって絶望的な方向へと急速に傾いていきます。特に、西軍の有力部隊であった小早川秀秋の軍勢が突如として東軍に寝返り、味方であるはずの大谷吉継隊に襲いかかったことで、西軍の戦線は一気に崩壊しました。この裏切りが決定打となり、西軍の敗北は濃厚となります。この時点でようやく島津義弘は行動を決意しますが、時すでに遅く、周囲は30,000を超えるとも言われる徳川家康軍の兵士たちによって幾重にも包囲されるという、まさに絶体絶命の状況に陥っていたのです。

近年の研究では、島津軍が動かなかった理由として、島津家内部の複雑な事情が影響していた可能性が指摘されています。具体的には、当時の島津家当主であった島津義久と、家中で大きな力を持っていた重臣・伊集院忠棟との間の権力闘争、そしてその後に起こった伊集院氏の反乱(庄内の乱)といった内紛が、島津家全体の結束力を弱め、義弘が関ヶ原で十分な兵力を動員したり、積極的な指揮を執ったりすることを困難にしたという見方です。朝鮮出兵の際に、義弘が部下たちと寝食を共にし、凍死者を一人も出さなかったという逸話に見られるように、部下を深く思いやる義弘の性格からすれば、少ない兵力を温存し、無益な消耗を避けようとしたという心理も働いたのかもしれません。

西軍内部の不協和音も、島津軍の行動に影響を与えた可能性があります。小早川秀秋の裏切りの背景には、石田三成との確執があったとされており、このような西軍首脳部の足並みの乱れが、遠方の九州から参陣した島津のような勢力の立場をさらに微妙なものにしたと考えられます。もし西軍首脳部が島津の戦力を過小評価していたり、あるいは地理的な遠さから連携が取りにくいと判断していた場合、島津軍はある種の「戦略的遊軍」、あるいは最悪の場合「捨て駒」に近い扱いを受けていた可能性も否定できません。このような孤立感が、後の壮絶な単独での敵中突破という、常軌を逸した行動へと繋がったとも考えられるのではないでしょうか。

 

2. 決死の敵中突破:「捨てがまり」戦術とは何か?

関ヶ原の戦いにおいて、西軍の敗北が決定的となり、周囲を敵の大軍に囲まれた島津義弘とわずかな手勢。まさに絶体絶命のこの状況で敢行されたのが、日本の戦史においても類を見ない壮絶な撤退戦術「捨てがまり」です。この戦術は、その過酷さと実行した兵士たちの覚悟において、後世に強烈な印象を残しました。一体、「捨てがまり」とはどのような戦術だったのでしょうか。

2-1. 「捨てがまり」の定義と目的:主君を生かすための壮絶な覚悟

「捨てがまり」(Sutegamari)とは、戦国時代の日本において、絶望的な状況下で本隊を安全に撤退させるために用いられた、まさに決死の戦術の一つです。この戦術の核心は、一部の選ばれた兵士たちが文字通り「捨て石」となり、自らの命と引き換えに追撃してくる敵軍を食い止め、本隊に逃走のための時間を与えるという点にあります。その目的は極めて明確であり、大将である島津義弘を生還させ、それによって島津家という組織の存続を図るという一点に集約されていました。ある資料では、この戦術が「彼らの主君が逃げる時間を稼ぐために自らを犠牲にした」と説明されており、その自己犠牲的な性格が浮き彫りになります。

この「捨てがまり」は、単なる軍事的な行動を超えて、主君に対する絶対的な忠誠心と、自らを顧みない自己犠牲の精神を極限の形で体現するものであり、武士道精神の一つの究極的な発露とも言えるでしょう。ある記録では、この戦術が英語で「Sutegamari – Self-Sacrifice for the Lord(主君のための自己犠牲)」と表現されており、その本質が見事に捉えられています。

この戦術の背景には、個人の生命よりも組織(家、藩)の永続性を優先するという、当時の武家社会における特有の価値観が色濃く反映されています。島津義弘の父が遺した「将たるもの、たとえ敗北しても、後の締めくくりが肝要である」という教えは、まさにこの組織存続の重要性を示唆していると言えるでしょう。現代の倫理観からは容易に理解しがたい側面を持つかもしれませんが、戦国という厳しい時代における、ある種の合理的な判断の一つであったとも考えられます。この非情とも言える合理性が、特に海外の視点から見ると、衝撃的に映るのかもしれません。

「捨てがまり」を実行するということは、その任務に就いた部隊の全滅をほぼ前提としています。これは、いわば計算された絶望とも言える状況です。しかし、その絶望的な犠牲の先に、大将の生還とそれによる家の再興という、一条の希望を見出そうとする行為でもありました。関ヶ原で島津義弘が多大な犠牲を払いながらも薩摩への帰還に成功したという事実は、この希望が、たとえ細い糸であっても現実に繋がったことを示しています。この戦術は、単なる玉砕や狂気の発露ではなく、極限状況下における「次善の策」としての戦略的意味合いを帯びていたと考えられ、この点が単なる蛮勇とは一線を画す部分であり、海外の軍事史家などが分析する際の重要な論点となる可能性があります。

2-2. 具体的な戦術展開:数名ずつの小部隊が盾となり、鉄砲で敵を足止めする

「捨てがまり」の具体的な戦術展開は、本隊が撤退を開始する際に、殿(しんがり)を務める部隊の中から、さらに数名から十数名程度の小規模なグループを選び出し、彼らを特定の地点に留まらせることから始まります。これらの小部隊は、追撃してくる敵の大軍に対して、主に当時最新兵器であった鉄砲(火縄銃)を駆使して果敢に応戦します。島津軍は鉄砲の運用に長けていたことで知られており、ある記録によれば、「島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです」とあり、その戦術の巧みさがうかがえます。

これらの小部隊は、敵を十分に引きつけて最大限の損害を与え、貴重な時間を稼いだ後、その多くは奮戦の末に全滅するか、あるいは最後の抵抗を試みて玉砕します。その間に、本隊はさらに後方へと退避し、安全な距離を確保しようとします。この壮絶なプロセスが、本隊がある程度の安全圏に達したと判断されるまで、波状的に繰り返されるのです。

ただし、関ヶ原の戦いにおける実際の「捨てがまり」は、計画通りに整然と実行されたわけではなかった可能性も指摘されています。ある記述によれば、戦闘があまりにも激しかったため、島津の兵士たちが事前に計画された通りに陣形を整え、「捨てがまり」を秩序立って実行する余裕はほとんどなかったとされています。むしろ、退却戦の混乱の中で、個々の兵士たちが必死に戦い、その結果として殿軍の役割を果たし、本隊の撤退を助けたという側面が強かったのかもしれません。

この戦術において鉄砲が主要な武器として用いられたことは注目に値します。鉄砲は遠距離から敵に損害を与え、特に突撃してくる騎馬隊などに対して有効な足止め効果を発揮します。少人数であっても、地形を巧みに利用し、的確な射撃を行うことで、大部隊の追撃を一時的に遅らせることが可能となります。これは、兵力で圧倒的に劣る島津軍が、武器の特性を最大限に活用して時間的猶予を生み出そうとした、極めて合理的な戦術選択であったと言えるでしょう。

また、「捨てがまり」部隊の死を覚悟した壮絶な抵抗は、追撃する敵兵に対して強烈な恐怖心や躊躇を与えた可能性も考えられます。死兵と化した兵士たちの鬼気迫る戦いぶりは、敵の進軍速度を鈍らせるだけでなく、その士気にも少なからぬ影響を与えたと推測されます。この心理的な効果もまた、「捨てがまり」が持っていた隠れた有効性の一つであったのかもしれません。

2-2-1. 射撃手たちの役割:死を覚悟した精密射撃

「捨てがまり」部隊の中核を担ったのは、卓越した技術を持つ鉄砲の射撃手たちでした。彼らは、自らの死が目前に迫るという極度のプレッシャーの中で、冷静沈着かつ的確に敵を狙撃するという、高度な技術と強靭な精神力が求められました。文字通り、自らの命と引き換えに、一発一発の弾丸を敵に向けて撃ち込んでいったのです。

ある記録によれば、彼らは地面に座り込み、安定した射撃姿勢を確保しながら、追撃してくる敵に対して十字砲火を浴びせたと言われています。これは、最後の瞬間まで抵抗を続けるという、彼らの固い決意の表れであったと考えられます。彼らに課せられた任務は、単に敵兵を殺傷すること以上に、敵の進撃の勢いを削ぎ、追撃部隊に恐怖心を与え、本隊が安全に撤退するための貴重な時間を稼ぎ出すことでした。

この射撃手たちの存在は、「捨てがまり」という戦術が、単なる精神論や玉砕戦法ではなく、高度な戦闘技術に裏打ちされていたことを示唆しています。薩摩兵の精強さの一端が、この死を覚悟した精密射撃に現れていると言えるでしょう。日頃からの厳しい訓練によって培われた射撃技術と、極限状態でも揺るがない精神力の融合が、この過酷な任務の遂行を可能にしたのです。このような技術と精神の高度な結合は、海外の軍事専門家から見ても特筆すべき点として評価される可能性があります。

2-2-2. 犠牲となった勇士たち:島津豊久、長寿院盛淳らの奮戦

「捨てがまり」という壮絶な戦術は、多くの有能な武将や名もなき兵士たちの尊い犠牲の上に成り立っていました。その中でも特にその名が知られているのが、島津義弘の甥にあたる島津豊久(しまづ とよひさ)です。豊久は、伯父である義弘の身代わりとなるべく敵を引きつけ、獅子奮迅の戦いぶりの末に壮絶な最期を遂げたと伝えられています。ある記録によれば、豊久の用いた青糸威の鎧には槍や刀による無数の傷跡が残されており、その最期がいかに凄惨なものであったかを物語っています。

また、義弘の家老であった長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)も、義弘から賜った陣羽織を身にまとい、自らが義弘であるかのように振る舞い、敵の攻撃を引き受けて討死したとされています。さらに、他の多くの島津の武士たちも、敵中にあって「我こそは島津義弘なり!」と大音声に叫び、敵の注意を自分たちに引きつけようと試みたという記録も残っており、主君を守るためならば自らの命を顧みないという、自己犠牲の精神が島津軍の隅々にまで徹底されていたことがうかがえます。

リスト1:「捨てがまり」で奮戦した主要な島津家臣

  • 島津豊久(しまづ とよひさ)
    • 続柄・役職:島津義弘の甥、日向佐土原城主
    • 主な戦功や最期のエピソード:義弘の退路を確保するため殿軍で奮戦。烏頭坂(うとうざか)で敵の追撃を食い止め、重傷を負い自刃したとされる。その勇猛果敢な戦いぶりは「捨てがまり」を象徴する逸話として語り継がれています。
  • 長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)
    • 続柄・役職:島津義弘の家老
    • 主な戦功や最期のエピソード:義弘から賜った陣羽織を着用し、義弘の影武者となって敵を引きつけ討死。主君への忠義を貫いた。
  • 阿多長寿院(あた ちょうじゅいん) ※長寿院盛淳と同一人物とされる場合もあるが、別人物とする説もある。
    • 続柄・役職:島津義弘の家臣
    • 主な戦功や最期のエピソード:義弘を守って戦死したとされる。
  • 柏木源藤(かしわぎ げんどう)
    • 続柄・役職:島津義弘の家臣、鉄砲の名手
    • 主な戦功や最期のエピソード:追撃してきた東軍の猛将・井伊直政を狙撃し負傷させる大手柄を立てる。この一撃が直政の後の死因になったとも言われています。

これらの勇士たちの犠牲があったからこそ、島津義弘は九死に一生を得て薩摩へ生還することができたのです。彼らの名は、「捨てがまり」の壮絶さと、それを実行した人々の揺るぎない覚悟を象徴するものとして、今もなお語り継がれています。特に、島津豊久や長寿院盛淳といった、義弘にとって極めて近しい血縁者や重臣たちが率先して犠牲となった事実は、一般の兵卒だけでなく、指導的立場にある者も命を賭して主君を守るという、島津家における忠誠心の強さと組織の結束力を鮮烈に示しています。このような上層部からの自己犠牲は、他の兵士たちの士気を高め、「捨てがまり」という過酷な任務への自発的な参加を促す効果もあったのかもしれません。この種の「ノブレス・オブリージュ」にも似た精神性は、海外の視点から見ても、武士道の特異な側面として注目される可能性があります。

2-3. 「座禅陣」との関連性:異説や当時の記録から見る実態

「捨てがまり」は、その戦術の様相から「座禅陣(ざぜんじん)」という別名で呼ばれることもあります。この名称は、兵士たちがまるで座禅を組むかのように地面にどっかと座り込み、迫りくる敵に対して冷静沈着に鉄砲を射撃する姿から名付けられたと言われています。この呼称は、死を目前にしても動じない武士の精神的な強靭さや、極限状態における冷静さを想起させます。

しかしながら、当時の記録を詳細に見ていくと、この「座禅陣」というイメージと実際の戦闘状況との間には、いくらかの差異が存在した可能性が浮かび上がってきます。ある資料によれば、関ヶ原の戦いにおける島津軍の撤退戦はあまりにも激しく、兵士たちが整然と座禅を組んで「捨てがまり」を計画通りに実行するような余裕はほとんどなかったのではないかと示唆されています。具体的には、「当時の記録はやや異なる状況を描写しており、戦闘があまりに激しかったため、島津の侍たちは整然とした形で捨てがまりの計画を実行する時間がなかった。代わりに、兵士たちは戦闘に集中し、戦場を離脱して初めて我に返った」という記述が見られます。また、別の記録では、接近戦が主体となり、鉄砲が役に立たず、刀を抜いての激しい白兵戦が繰り広げられたとも伝えられています。

これらの記録から推測すると、「座禅陣」という名称は、後世の人々が「捨てがまり」を実行した兵士たちの壮絶な覚悟や、死をも恐れぬ冷静さを称賛し、象徴的に表現したものであるか、あるいは理想化された戦術のイメージが定着したものである可能性が考えられます。実際の戦闘は、より混沌とし、計画通りには進まない状況下での、個々の兵士による必死の抵抗の連続であったのかもしれません。

この理想化された戦術イメージと現実の戦場の間の乖離は、英雄譚や伝説が形成されていく過程で、実際の出来事が脚色されたり、特定の側面が意図的に強調されたりする現象の一例と見ることができるかもしれません。「捨てがまり」の核心は、その形式(座禅を組むかどうか)よりも、むしろその根底にある自己犠牲の精神と、主君である島津義弘を生還させるという明確な目的にあったと言えるでしょう。この揺るぎない精神性こそが、後世に様々な形で語り継がれる中で、「座禅陣」という象徴的で印象深い呼称を生み出すに至ったのかもしれません。

「捨てがまり」と「座禅陣」という二つの呼称が存在することは、この戦術が多様な側面から捉えられ、解釈されてきた歴史を物語っています。「捨てがまり」という言葉は戦術の機能、すなわち「捨て石」となって本隊を守るという側面を強調し、一方で「座禅陣」という言葉は、戦術を実行する兵士の精神状態や姿勢、つまり死を前にしても動じない冷静さや不動の覚悟を強調しているように思われます。この呼称の違いやその背景を探ることは、戦術そのものの理解を深めるだけでなく、それが後世にどのように記憶され、解釈されてきたかという、歴史の受容のあり方についても考える上で興味深いテーマを提供してくれます。

3. 「島津の退き口」- 薩摩への道:生還者わずか80余名

関ヶ原の戦場からの脱出は、島津義弘と彼に従う兵士たちにとって、想像を絶する苦難の始まりでした。後に「島津の退き口」として語り継がれるこの撤退行は、敵中突破という壮絶な幕開けから、飢えと疲労、そして絶え間ない追撃との戦いを経て、薩摩への生還を果たすまでの壮大なドラマです。しかし、その代償はあまりにも大きく、当初1,500名いたとされる兵士のうち、故郷の土を再び踏むことができたのは、わずか80余名であったと言われています。

3-1. 徳川本陣への突撃:家康の目前をかすめた島津軍の勇猛

西軍の敗色が誰の目にも明らかとなり、周囲を数万とも言われる東軍の兵士たちによって完全に包囲された島津義弘は、常人では考えも及ばない驚天動地の決断を下します。それは、敵の総大将である徳川家康の本陣を目がけて正面から突撃を敢行し、その堅固な守りの中央を強引に突破して活路を開くという、まさに破天荒なものでした。

ある記録には、「義弘は部下に、30,000人を超える徳川軍本隊の真っ只中に突撃するよう命じた。…その猛烈な突撃は、不意を突かれた徳川軍を割って進み、島津軍は徳川家康とその旗本たちのすぐそばを通過することを可能にした」とあり、その突撃の凄まじさと、家康の目前をかすめ去ったという劇的な状況が生々しく記されています。この行動は、通常の敗走や退却とは全く逆の発想であり、まさに死中に活を求める島津軍の比類なき勇猛さと、土壇場で見せた驚異的な覚悟を象徴する出来事として、後世に語り継がれています。別の資料では、「猛勢の東に退路を開く」という義弘の決然とした言葉が伝えられており、その胆力の大きさがうかがえます。

この大胆不敵かつ予測不可能な突撃は、数の上で圧倒的に優位にあった東軍に大きな衝撃を与え、一時的に彼らの戦列に混乱を生じさせました。島津軍はその一瞬の隙を逃さず、敵中を突破し、故郷薩摩への長く険しい撤退戦を開始することになります。この絶望的な状況下で、最も防御が厚く、最も危険であるはずの敵本陣へ突撃するという選択は、常識的には考えられない奇策でした。しかし、敵もまさか敗残の小部隊が本陣に突っ込んでくるとは予想しておらず、その意表を突くことで活路を見出そうとした、まさに「窮鼠猫を噛む」という言葉を地で行く戦略であったと言えるでしょう。この「逆張り」とも言える発想は、島津義弘の類稀な戦術眼と不屈の精神力、そして追い詰められた極限状況が生み出した究極の判断であったと考えられます。

この家康本陣への突撃は、単なる突破行動に留まらず、徳川方に対して島津の武威を強烈に印象付けるという、もう一つの重要な意味合いを持っていた可能性があります。たとえ戦に敗れたとしても、その圧倒的な勇猛さを示すことで、戦後の交渉において相手に侮られることを避け、有利な条件を引き出すための布石としたという深謀遠慮があったのかもしれません。事実、後に徳川家康が島津家の存続を認めた背景には、この関ヶ原で見せた島津の恐るべき強さへの認識が少なからず影響したとも考えられています。この突撃は、後の「捨てがまり」と共に、島津の「戦わずして負けたわけではない」という強烈なメッセージとなり、戦後処理を有利に進めるための無形の圧力として機能したのかもしれません。

3-2. 追撃する東軍猛将たち:井伊直政、本多忠勝との激闘

徳川家康の本陣をかすめるという大胆な敵中突破を果たした島津軍でしたが、それで危機が去ったわけではありませんでした。東軍の誇る猛将たちが、この屈辱的な突破を黙って見過ごすはずもありませんでした。特に、徳川四天王の二人としてその名を轟かせていた井伊直政と本多忠勝が、家康の息子である松平忠吉と共に、執拗かつ激しい追撃を開始します。

中でも、「井伊の赤備え」として恐れられた井伊直政の部隊による攻撃は凄まじく、撤退する島津義弘の軍勢は何度も危機的な状況に陥ったと伝えられています。ある資料では、島津軍が「井伊直政と本多忠勝からの攻撃を撃退した」と言及されており、その戦闘の激しさがうかがえます。この絶え間ない追撃戦の中でこそ、前述した「捨てがまり」戦術が本格的に展開され、島津の兵士たちは次々と尊い命を犠牲にしながら、本隊の活路を切り開いていったのです。

この追撃戦は、単なる敗残兵狩りではなく、当代きっての名将同士の意地とプライドが激しく衝突する、壮絶な戦いであったと言えるでしょう。井伊直政や本多忠勝にとって、敵中突破を許した上に、敵の大将である島津義弘を取り逃がすことは、自らの武名に泥を塗る大きな屈辱であり、徳川家における威信にも関わる重大な問題でした。そのため、彼らは配下の兵を鼓舞し、執拗な追撃を続けたと考えられます。この名将たちの猛烈な追撃があったからこそ、島津軍は「捨てがまり」という、他に類を見ない究極の自己犠牲戦術に頼らざるを得なかったのです。

一方で、追撃する側の井伊直政らも、島津軍の死に物狂いの抵抗に直面し、大きな損害を被るリスクを常に負っていました。実際に井伊直政はこの追撃戦で負傷しています。島津側は、この追撃側のリスクを計算に入れ、「捨てがまり」によって局所的にでも有利な状況を作り出し、敵の追撃の勢いを削ぎ、時間を稼ごうとしたと考えられます。「捨てがまり」は、単に時間を稼ぐだけでなく、追撃側に「これ以上の深追いは危険であり、割に合わない」と思わせる心理的な効果も狙っていた可能性があり、その計算された側面も見逃せません。

3-2-1. 井伊直政を負傷させた一撃:柏木源藤の狙撃

 

島津軍と東軍追撃部隊との間で繰り広げられた激しい戦闘の最中、特筆すべき出来事が起こります。東軍の猛将・井伊直政が、島津義弘の姿を捉え、まさに肉薄しようとしていたその時でした。直政は部下たちに対し、「早く義弘を撃て!何をしている!」と激しく叱咤激励し、島津本隊への圧力を強めていました。

その刹那、島津の兵士の一人であった柏木源藤(かしわぎ げんどう)という名の鉄砲の名手が、冷静に狙いを定め、火縄銃の引き金を引きました。放たれた弾丸は井伊直政の胸部(あるいは右腕とも言われる)を見事にとらえ、直政を馬上から撃ち落としたのです。この一撃は直政にとって致命傷にはならなかったものの、深手を負わせるには十分であり、東軍の追撃の勢いを大きく削ぐ決定的な要因となりました。ある記録には「柏木源藤は狙いを定め、井伊直政の胸を火縄銃で撃ち、落馬させた」と、この劇的な瞬間が簡潔に記されています。この時の銃は現在も尚古集成館に保存されており、井伊直政はこの時の傷がもとで約1年後に亡くなったとも伝えられています。

柏木源藤によるこの狙撃は、「捨てがまり」という戦術が単なる玉砕や時間稼ぎに留まらず、敵の重要人物に損害を与えることで具体的な戦術的効果を上げたことを示す象徴的なエピソードと言えるでしょう。一兵卒の勇気と技術が、戦局全体に影響を与えうることを鮮やかに示しており、物語にリアリティと英雄性を加えています。この一撃は、敵の指揮官である井伊直政を直接狙ったものであり、指揮官を失うか負傷させることは、部隊の統制を著しく乱し、士気を低下させる上で極めて効果的な手段です。「捨てがまり」部隊が、単に敵兵を足止めするだけでなく、敵の指揮系統そのものを麻痺させることも意図していた可能性を示唆しており、少数で大部隊に対抗するための、非常に効率的な戦術思想が見て取れます。

柏木源藤という一人の射手の行動が、井伊直政という大物を負傷させ、結果として島津本隊の撤退を大きく助けたという事実は、組織的な戦術の中にあっても、個人の卓越した技量や不屈の勇気が戦況を左右しうることを明確に示しています。「敵は彼らの将軍が撃墜されたことに衝撃を受けた」という記述は、この一撃が敵軍に与えた心理的衝撃の大きさを如実に物語っています。このような個人の英雄的行為は、特に武士道精神を重んじる文化において高く評価され、後世に長く語り継がれる重要な要因となります。海外においても、このような「ダビデがゴリアテを倒す」がごとき劇的なエピソードは、人々の強い関心を引く可能性があります。

 

3-3. 苦難の撤退路:飢えと疲労、そして農民からの襲撃

敵中突破と井伊直政ら東軍猛将たちの執拗な追撃戦を辛うじて生き延びた島津義弘と、彼に従う数少ない残存兵たちでしたが、彼らの苦難はまだ終わったわけではありませんでした。故郷である薩摩までの約1,000キロメートルにも及ぶ道のりは、想像を絶するほどの困難に満ちていたのです。

まず彼らを襲ったのは、深刻な食料不足と、極度の肉体的・精神的疲労でした。連戦による消耗と、先の見えない逃避行は、屈強な薩摩隼人たちの体力と気力を容赦なく奪っていきました。さらに、この時代特有の脅威であった「落武者狩り」を行う武装した農民たちからの襲撃にも、彼らは度々苦しめられることになります。ある記録には、「農具で武装した農民の集団もまた、疲弊した落武者を追い詰めて打ち殺した」とあり、敗残兵に対する当時の農民たちの容赦ない仕打ちが生々しく伝えられています。これは、戦国時代において敗残兵がしばしば略奪行為に及んだため、農民にとっては自衛の手段であると同時に、武具や金品を手に入れる機会でもあったという、当時の厳しい現実を反映しています。

生き延びるためには、乗ってきた馬を殺してその肉を食べなければならないほど、彼らは追い詰められていました。しかし、そのような極限状況下にあっても、その貴重な馬肉さえも、次にいつ戦いが起こるかわからないため、戦う可能性のある兵士たちに優先的に与えられ、総大将である島津義弘自身は口にしないこともあったと伝えられています。この逸話は、主君と家臣の間の固い絆と、極限状態にあっても失われなかった規律の厳正さ、そして何よりも部下を思いやる義弘のリーダーシップの一端を示しています。普段から兵士たちと寝食を共にし、身分に関係なく配慮を欠かさなかったとされる義弘の姿勢 13 が、このような危機的状況下でも貫かれていたのです。この種の人間味あふれるエピソードは、単に勇猛な武将としてだけでなく、人間・島津義弘の深い魅力を伝え、後世の人々の共感を呼ぶ要因となっています。

3-4. 堺の商人たちの助力:九死に一生を得た義弘

疲労困憊し、数もわずかとなった島津義弘一行は、長い逃避行の末、ようやく大坂南部の港町・住吉(現在の大阪市住吉区周辺)にたどり着きました。ここで彼らは、まさに九死に一生を得る幸運に恵まれます。それは、以前から薩摩藩と交易関係のあった商人たちの予期せぬ助けでした。

特に、堺の商人であったとされる塩屋孫右衛門(しおや まごえもん)という人物は、義弘一行の窮状を知ると、危険を顧みずに彼らを匿ったと伝えられています。孫右衛門は、自らの3歳になる孫を義弘の膝の上に乗せてみせることで、義弘に対する絶対的な信頼と支援の意志を示したという逸話が残っており、その大胆かつ心温まる行動は、義弘らを深く勇気づけたことでしょう。

これらの商人たちは、単に義弘一行を匿うだけでなく、当時大坂城に留め置かれていた義弘の妻・宰相殿や、義弘の息子である島津忠恒(後の家久)の妻・亀寿が城から脱出する際にも、重要な手助けを行いました。商人たちの協力の背景には、彼らが中国や東南アジアとの海外貿易を行う際に、島津藩の領内を通過する必要があったという、長年にわたる経済的な繋がりが存在したと指摘されています。つまり、彼らにとって島津家の存続は、自らの商業活動の安定と利益を守る上でも重要な意味を持っていたのです。

商人たちの献身的な助力により、義弘らはようやく追っ手から逃れるための船を確保し、海路で故郷薩摩を目指すことが可能となりました。この時の商人たちの恩義に対し、島津義弘は後に深く感謝し、例えば田辺屋(たなべや)という商人(後の大手製薬会社、三菱田辺製薬の遠祖とされる)には、名刀や貴重な戦陣薬などを贈ったというエピソードも残っており、武士と商人との間の信頼関係を物語っています。この出来事は、絶望的な状況からの生還には、武力や戦略だけでなく、こうした人的な繋がりや経済的な背景が、時に決定的な役割を果たすことがあるという、歴史の意外な側面を私たちに教えてくれます。

4. 【本記事の核心】捨てがまり 海外の反応:世界は島津の戦術をどう見たか?

関ヶ原の戦いで見せた島津軍の「捨てがまり」という戦術は、その壮絶さ、自己犠牲の精神、そして主君への絶対的な忠誠心において、日本の戦国史の中でも際立った存在感を放っています。では、この特異な戦術や、それを実行した島津義弘という武将は、海を越えた海外の人々の目にはどのように映り、どのように評価されているのでしょうか。ここでは、歴史的な評価から現代のSNSでの反応、さらには軍事史的な比較分析まで、多角的に「捨てがまり」に対する海外の視線を探っていきます。

4-1. 「鬼石曼子(グイシーマンズ)」の異名:朝鮮出兵で轟いた島津義弘の武勇と海外の評価

島津義弘の武勇と島津軍の強さは、関ヶ原の戦いが起こる以前から、すでに海外、特に朝鮮半島や当時の中国(明)において広く知れ渡っていました。その評価を決定づけたのが、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年~1598年)です。この戦役において、島津義弘は数々の目覚ましい戦功を挙げ、その名を朝鮮半島に轟かせました。

特に1598年に起こった泗川(サチョン)の戦いは、義弘の武名を不動のものとしました。この戦いで義弘は、わずか7,000の兵力で、37,000(一説には20万とも)と数で圧倒する明・朝鮮連合軍を打ち破るという、にわかには信じがたいほどの驚異的な大勝利を収めたのです。この圧倒的な戦果により、敵であった明・朝鮮の兵士たちから、島津義弘は畏怖の念を込めて「鬼石曼子(グイシーマンズ)」、すなわち「鬼島津」と呼ばれ、恐れられるようになりました。ある資料には、「1597年、藤堂高虎、加藤嘉明、小西行長らと共に、義弘は元均の水軍を破った。1598年の泗川の戦いでは、37,000を数える明軍に対し、義弘はわずか7,000の兵でこれを打ち破った」と、その具体的な戦功が記されています。

この朝鮮出兵における勇猛果敢な戦いぶりと、寡兵よく大軍を破る戦術的手腕は、島津軍の精強さと島津義弘の卓越した指揮能力を国際的に強く印象づけるものでした。このような背景があったからこそ、後に関ヶ原で見せる「捨てがまり」のような、常軌を逸したとも言える自己犠牲的な戦術も、単なる無謀な行動としてではなく、この「鬼島津」の恐るべき強さと結びつけて理解される素地が、海外(特に東アジア)において形成されていたと言えるでしょう。

「鬼石曼子」という呼称は、文字通り「鬼のような島津」という意味合いであり、敵国であった朝鮮や明の兵士たちが島津軍に対して抱いた強烈な恐怖心を如実に表しています。泗川の戦いのような、圧倒的な兵力差を覆しての勝利は、単なる恐怖を超えて、ある種の畏敬の念すら抱かせた可能性があります。この「恐怖と畏敬」が入り混じった複雑な評価は、後に「捨てがまり」という自己犠牲を伴う壮絶な戦術が伝えられた際に、その異常さや兵士たちの献身性をより一層際立たせる効果を持ったかもしれません。例えば、朝鮮の英雄として名高い李舜臣(イ・スンシン)提督が、日本の将軍の一人であった脇坂安治から「最も恐れ、最も憎み、最も愛し、最も尊敬し、最も殺したい、そして最も茶を共にしたい人物」と評されたように 14、敵でありながらもその卓越した能力を認めざるを得ないという複雑な感情が、島津義弘や島津軍に対しても存在した可能性が考えられます。

当時の海外、特に東アジアの人々が島津義弘や島津軍を「鬼」と評した際、それは彼らの戦術の巧妙さだけでなく、文化的な異質さや、時には理解し難いほどの勇猛さ(あるいは見方によっては残虐さ)全体を指していた可能性があります。「捨てがまり」のような特異な戦術が具体的にどの程度伝わっていたかは定かではありませんが、もしその情報が伝わっていたとすれば、それは島津軍の「理解を超えた強さ」や「予測不可能な行動」を裏付けるものとして認識されたことでしょう。当時の海外では、日本の武士道精神や主君への絶対的な忠誠といった文化的な背景まで深く理解されていたわけではないため、島津軍の行動は純粋に軍事的な現象として、あるいはもっと原始的な「狂暴さ」や「異様な結束力」として捉えられたかもしれません。この点が、現代の歴史家や軍事アナリストが、文化的背景を踏まえて分析する視点とは異なる可能性を示唆しています。

4-2. 海外における「Sutegamari」の認知度:歴史フォーラムやSNSでの議論

現代において、「捨てがまり(Sutegamari)」という言葉や、その背景にある島津軍の壮絶な戦いは、海外の日本の歴史ファン、武士道に関心を持つ人々、軍事史愛好家、あるいは特定の日本のゲームや漫画、アニメのファンの間で、一定の認知度と関心を集めています。

特に、Reddit(レディット)のような海外の大型匿名掲示板や各種フォーラムでは、「Sutegamari」や島津氏の特異な戦い方、その精神性について、活発な議論が交わされているのを見ることができます。例えば、あるRedditのスレッドでは、関ヶ原の戦いにおける島津軍の奮戦や「捨てがまり」について触れ、「このような理由から、島津はいくぶん狂気じみている(insane)と見られている」といったコメントが寄せられており、その常軌を逸した戦術の特異性が海外の視点からも注目されていることがうかがえます。この「狂気じみている」という言葉には、否定的な意味合いだけでなく、理解を超えたものへの驚嘆や畏怖の念も含まれているように感じられます。

また、別の議論では、平野耕太氏の人気漫画『ドリフターズ』に関連して「捨てがまり」が言及され、「この戦術は、少数の侍の集団が追撃部隊に自ら突撃するものです。この集団は、追撃者を遅らせて本隊の撤退を可能にするために、戦って死ぬことを厭いません」と、その概要が説明されています。これらのオンライン上の議論では、「捨てがまり」の戦術としての有効性、その倫理的な側面、そして何よりも、その過酷な任務を遂行した兵士たちの精神性や覚悟の度合いなどが、しばしば熱心な討議の対象となっています。

このような現代の海外における「捨てがまり」の認知や評価は、純粋な学術的な関心からだけではなく、日本のポップカルチャー、特に漫画やアニメ、ゲームといったエンターテイメント作品を通じて形成されている側面が大きいと考えられます。例えば、前述の『ドリフターズ』 15 や、戦国時代をテーマにした歴史シミュレーションゲーム『Shogun: Total War』シリーズ 16 などは、海外のファンが「捨てがまり」や島津武士の存在を知る大きなきっかけとなっています。これらの作品は、歴史的事実をエンターテイメントとして脚色したり、特定の側面を強調したりすることがありますが、一方で歴史そのものへの関心を喚起し、より深い情報を求める探求心へと繋がる入り口としての役割も果たしています。

武士道や侍といった要素は、海外において「クールジャパン」の象徴の一つとして根強い人気を誇っています。「捨てがまり」は、その武士道精神の中でも特に自己犠牲や主君への絶対的な忠誠心といった側面が、極めて先鋭的かつ劇的な形で現れたものと捉えられ、一部の層には強烈な魅力として映る可能性があります。前述の「いくぶん狂気じみている」という評価は、その極端さに対する驚嘆と、ある種の抗いがたいカリスマ性を同時に含んでいると解釈できるでしょう。この「常識を超えた格好良さ」や「死をも恐れぬ覚悟」といったイメージが、海外のファンを惹きつける重要な要因の一つになっているのかもしれません。

4-2-1. 現代の外国人が語る「捨てがまり」:勇気か、狂気か?

海外の歴史フォーラムやソーシャルメディア上で交わされる「捨てがまり」に関する議論を詳しく見ていくと、その評価はしばしば「驚嘆すべき比類なき勇気」と「理解しがたいほどの狂気」という、両極端の間で揺れ動いている様子が観察されます。

主君や組織のために自らの命を躊躇なく投げ出すという行為は、特に個人の権利や生命の尊厳を重視する現代の西洋的な個人主義の価値観からは、容易には理解し難い側面を持っています。そのため、「捨てがまり」を実行した兵士たちの行動が、「狂信的」あるいは「非人間的な自己破壊」と映ることも少なくありません。あるフォーラムで見られた「このような理由から、島津はいくぶん狂気じみていると見られている」というコメントは、まさにそのような異文化間の価値観のギャップから生じる戸惑いや違和感の一例と言えるでしょう。

一方で、その圧倒的なまでの覚悟、主君への揺るぎない忠誠心、そして絶望的な状況下にあっても最後まで抵抗を諦めず、活路を開こうとするその意志の強さに対して、深い感銘を受け、称賛や畏敬の念を抱く人々もまた数多く存在します。関ヶ原において、わずか1,500の兵で30,000を超える敵軍の真っ只中に突撃し、井伊直政や本多忠勝といった名だたる猛将たちの追撃を振り切った島津軍の武勇伝は、その壮絶さゆえに多くの海外の歴史ファンを魅了しています 4

これらの議論の中では、「捨てがまり」という戦術が生まれた背景にある武士道精神や、当時の日本の社会構造、主従関係といった文化的背景を理解しようとする真摯な試みも見受けられます。しかしながら、400年以上も前の、しかも全く異なる文化圏で育まれた精神性を、現代の異文化の人間が完全に理解し、共感するには、やはり大きな文化的・時間的な隔たりが存在し、完全な共感には至らないケースも多いようです。

この「勇気」と「狂気」という二元的な評価軸は、「捨てがまり」を評価する個人の文化的背景や倫理観、歴史観に大きく左右されることを示しています。自己犠牲を絶対的な美徳とする文化(例えば、当時の日本の武士道における特定の側面)と、個人の生命や自由を最優先の価値と考える文化(例えば、現代西洋の一般的な個人主義的思想)とでは、同じ一つの行為に対しても、全く異なる意味づけや評価が下される可能性があります。このことは、「捨てがまり」に対する評価が絶対的なものではなく、多分に相対的なものであることを私たちに教えてくれます。

現代の外国人が、遠い過去の異文化における極限的な戦術や、それに伴う兵士たちの精神性を完全に理解し、共感することは極めて困難な作業です。しかし、それでもなお「捨てがまり」が国境を越えて人々の関心を引き、議論の対象となるのは、そこに極限状態における人間の行動原理、組織への忠誠心、絶望の中に見出す希望、そして生と死のあり方といった、時代や文化を超えて通底する普遍的なテーマが見出せるからかもしれません。「勇気か、狂気か」という問いかけ自体が、この戦術の持つ強烈なドラマ性や、そこに秘められた人間性の深淵を覗き込もうとする、知的な探求の現れであると言えるでしょう。たとえ完全な理解には至らなかったとしても、その行為の背景にあるものへの尽きない興味と探求心は、今後も様々な形で語り継がれていくに違いありません。

4-3. 軍事史的視点からの比較分析:海外の類似戦術(遅滞行動・後衛戦闘)との違い

軍事史という学術的な視点から「捨てがまり」を分析すると、この戦術は広義には「遅滞行動(Delaying Action)」や「後衛戦闘(Rear Guard Action)」の一形態として位置づけることができます。これらの戦術は、古今東西の様々な戦争で見られ、主力部隊の安全な撤退を支援したり、戦略的に重要な時間を稼いだりすることを目的として、一部の部隊が敵の進撃を意図的に遅らせるために戦うものです。

例えば、米軍の野戦教範によれば、遅滞行動は「圧力を受けている部隊が、敵の勢いを削ぎ、敵に最大限の損害を与えつつ、原則として決定的交戦を避けることによって、空間と時間を交換する退却の一形態」と定義されています。ここでの重要なポイントは、「原則として決定的交戦を避ける」という部分です。つまり、遅滞行動を行う部隊は、可能な限り自軍の損害を抑えつつ、敵の足を止めることを目指します。

しかしながら、島津の「捨てがまり」の最も際立った特徴は、その作戦を実行する部隊が、ほぼ確実に全滅することを最初から前提としている点にあります。これは、前述の遅滞行動の定義とは大きく異なり、「捨てがまり」は決定的交戦を避けるどころか、むしろ自らの全滅を覚悟の上で敵に立ち向かうという、極めて自己犠牲的な性格を帯びています。

西洋の軍事史においても、テルモピュライの戦いにおけるスパルタ軍の奮戦や、ロンスヴォーの戦いにおけるローラン隊の悲劇など、英雄的な後衛戦闘の例は数多く存在します。ハバードトンの戦いもまた、「後衛戦闘の典型例」と評されていますが、これらの戦いの目的は、あくまで主力軍の保全や戦略目標の達成であり、後衛部隊の全滅を最初から意図していたわけではありません。

この「全滅前提」という過酷な条件こそが、海外の類似戦術と比較した際に、日本の「捨てがまり」が持つ顕著な特異性であり、海外の軍事専門家や歴史愛好家が特に注目するポイントの一つとなっています。西洋の軍事思想における遅滞行動が、可能な限り損害を抑制し、兵力を温存しながら時間を稼ぎ、主力部隊の再編成や将来の反撃の機会を確保することを基本的な目的としているのに対し、「捨てがまり」は、実行部隊の全滅と引き換えに時間を稼ぐという、効率性の観点から見れば極めて非合理とも言える手段を選択しています。この根本的な差異は、兵士の生命に対する価値観、組織と個人の関係性の捉え方、そして戦術における「合理性」の定義そのものが、文化や時代によって異なることを示唆しています。西洋の軍事思想がしばしば「兵力の経済の原則」を重視するのに対し、「捨てがまり」は「精神力による物質的劣勢の克服」や「主君への絶対的な忠誠」といった、異なる次元の価値観に基づいていると言えるかもしれません。

また、「捨てがまり」のような特異な戦術が日本で生まれた背景には、日本の地理的条件や兵器の特性も影響している可能性があります。日本の戦国時代の戦闘は、比較的狭隘で複雑な地形で行われることが多く、大規模な兵站システムや広範囲な機動戦を展開しにくいという特徴がありました。鉄砲という強力な新兵器が登場したものの、その運用方法や弾薬の補給には依然として多くの制約がありました。このような環境下で、少数の兵力で効果的に敵の大部隊を足止めする手段として、「捨てがまり」のような一点集中・自己犠牲型の戦術が、ある種の必然性をもって編み出された可能性も考えられます。南北戦争におけるポートギブソンの戦いでは、数的に劣勢だった南軍が地形を巧みに利用して効果的な遅滞行動に成功した例がありますが 19、これもまた地形が戦術選択に与える影響の大きさを示しています。「捨てがまり」は、武士道という精神的支柱だけでなく、日本の地理的・技術的制約の中で生まれた、ある種の「ガラパゴス的」とも言える進化を遂げた戦術と捉えることもできるかもしれません。

表2:「捨てがまり」と海外の類似戦術比較

特徴 捨てがまり (日本・戦国時代) 遅滞行動 (Delaying Action) (主に西洋近現代軍事思想) 後衛戦闘 (Rear Guard Action) (一般的・歴史的)
主目的 主君・本隊の確実な生還・撤退時間の確保 主力部隊の撤退支援、時間獲得、敵戦力の漸減、敵意図の解明 本隊の安全な撤退の確保、追撃の阻止・遅延
主な手段 少人数部隊による死守、鉄砲による狙撃、敵指揮官への攻撃 地形利用、機動的な戦闘、火力による敵の消耗、障害物の設置 地形を利用した防御戦闘、限定的な反撃
犠牲の度合い 実行部隊の全滅を前提とする場合が多い 原則として決定的交戦を避け、部隊の損耗を最小限に抑えることを目指す 損害は避けられないが、全滅を前提とはしない。可能な限り部隊を保全しつつ任務を遂行する
文化的背景・思想 武士道(主君への忠誠、名誉ある死、自己犠牲)、集団主義 合理主義、兵力の経済の原則、個人の生命の尊重(比較的) 様々。多くは軍事的合理性に基づくが、名誉や義務感が影響する場合もある。
代表的な戦例 関ヶ原の戦い(島津軍の退き口) ポートギブソンの戦い、アトランタ方面作戦序盤 テルモピュライの戦い、ロンスヴォーの戦い、ハバードトンの戦い

この比較表からも明らかなように、「捨てがまり」の最大の特徴は、実行部隊の全滅をある程度前提としている点にあります。これは、他の多くの遅滞行動や後衛戦闘が、可能な限り損害を抑えつつ任務を達成しようとするのとは対照的です。この違いこそが、「捨てがまり」の特異性を際立たせ、海外の視点から見たときに強い印象を与える要因となっているのです。

4-3-1. 自己犠牲の精神:武士道と西洋騎士道の比較から見える価値観の差異

 

「捨てがまり」という戦術の根底に流れる強烈な自己犠牲の精神は、日本の武士道という独特の倫理規範に深く根ざしています。武士にとって、主君への絶対的な忠誠、家名の存続と繁栄、そして何よりも名誉ある死を迎えることは、最高の価値観の一つとして尊ばれていました 17。ある資料では、「戦略や戦術は勝利のためだけでなく、侍の名誉を守るためにも設計された」と述べられており 22、戦術と名誉が不可分のものであったことが示されています。また、武士道が「死の覚悟」を日常的に強調していたことも指摘されています。

一方、中世ヨーロッパで発展した西洋の騎士道もまた、名誉、勇気、主君や貴婦人への忠誠を重んじるものでしたが、その自己犠牲のあり方や価値観の優先順位には、日本の武士道とは異なる側面が見られます。西洋騎士道はキリスト教的な価値観の影響を強く受けており、個人の魂の救済や、より普遍的な正義、あるいは神の栄光のための戦いが重視される傾向がありました。

「捨てがまり」のような、特定の主君や「家」という共同体のために、文字通り自らの命を「捨てる」という行為は、西洋騎士道の文脈においては、必ずしも最高の美徳とは見なされないかもしれません。むしろ、生きて再び戦うことの価値や、より大きな目的(例えば信仰や国家)のために貢献し続けることが、より重要視される場合もあります。

この価値観の根本的な差異が、「捨てがまり」に対する海外、特に西洋文化圏からの評価を複雑で多面的なものにしている大きな要因の一つと言えるでしょう。武士道には、潔い死や名誉ある死を積極的に美化し、それを追求する傾向が見られますが、「捨てがまり」はその極端な現れと解釈できます。西洋の騎士道においても勇気ある死は称賛の対象となりますが、日本の武士道ほど「死そのもの」に積極的かつ具体的な価値を見出す思想は主流ではなかったかもしれません。禅宗の影響を受けた武士道が「内なる救済」を求め、これが独特の死生観に影響を与えた可能性も指摘されています。この「死の美学」に対する文化的な感受性の違いが、「捨てがまり」を「崇高な自己犠牲」と捉えるか、あるいは「無駄死に」や「狂信的な行為」と見るかの大きな分岐点になる可能性があります。

さらに、忠誠の対象とその範囲にも違いが見られます。武士道の忠誠は、多くの場合、直接仕える主君や所属する「家」という、具体的で限定的な対象に向けられます。これに対し、西洋騎士道の忠誠は、主君に加え、神や教会、あるいはより抽象的な「正義」や「理想」といった普遍的な概念に向けられることもありました。「捨てがまり」における忠誠は、島津義弘個人と島津家という、極めて具体的かつ限定的な対象への献身です。この忠誠の対象の具体性と限定性が、西洋的な普遍主義的価値観からは、時に理解しにくい「個人的な忠誠」や「閉鎖的な集団への帰属意識」と映るかもしれません。ある記録では、「捨てがまりは、少数の兵士を消耗品の囮として残し、彼と部下の大多数が逃げる時間を稼ぐものだった。この部隊は…東軍を遅滞させ…義弘の逃亡を可能にしたが、豊久の命を犠牲にした。この犠牲を通じて、島津家はその名誉を保った」とあり、個人の犠牲と「家」の名誉が強く結びついていることが示されています。

4-4. 海外の創作物における島津と「捨てがまり」:漫画『ドリフターズ』などに見る影響

島津義弘やその甥である島津豊久、そして彼らが関ヶ原の戦いで見せた「捨てがまり」の壮絶な逸話は、国境を越えて現代のクリエイターたちにも影響を与え、海外でも人気のある日本の漫画作品などを通じて、新たなファン層に知られるようになっています。その代表例として挙げられるのが、漫画家・平野耕太氏による歴史ファンタジーアクション漫画『ドリフターズ』です。

『ドリフターズ』は、関ヶ原の戦いで「捨てがまり」の殿軍を務め、まさに死の淵にあった島津豊久が、謎の力によって異世界へと召喚されるという衝撃的な場面から物語が始まります 24。作中では、島津武士の常軌を逸した勇猛さ、敵の首を執拗に狙う戦闘狂とも言える気質、そして「首置いてけ」という独特のセリフに代表される彼らの死生観が、極めて鮮烈かつエンターテイメント性豊かに描かれています。ある作品レビューには、「島津の捨てがまりの屍山血河を潜り抜けたらそこは異世界だった」という読者の感想が記されており、この戦術が作品の導入部として、読者に強烈なインパクトを与えていることがよくわかります。

このような創作物を通じて、「捨てがまり」という言葉や、島津武士の特異なイメージが海外のファンにも広く浸透し、ある種のカリスマ的な人気を獲得しています。ただし、これらの作品で描かれる内容は、あくまでエンターテイメントとして史実を基に大胆な脚色や誇張が加えられたものであり、歴史的事実そのものとは異なる点に留意が必要です。しかし、これらの作品が歴史への興味の入り口となり、読者や視聴者がより正確な情報や背景知識を求めるきっかけになっているという側面も無視できません。

『ドリフターズ』以外にも、戦国時代をテーマにした海外製のコンピューターゲーム、例えば人気歴史シミュレーションゲームである『Shogun: Total War』シリーズなどにおいても 16、島津氏族が持つ特異な戦闘スタイル、高い士気や忠誠心、そして時には無謀とも思えるほどの攻撃性が、ゲーム内のユニット特性や勢力の特徴として反映されている場合があります。これらのゲームをプレイした海外のユーザーが、島津氏や「捨てがまり」といったキーワードに関心を持ち、さらに深く調べるというケースも少なくないでしょう。

このように、歴史上の人物や出来事は、現代のポップカルチャーというフィルターを通してキャラクター化され、新たな物語として消費されることがあります。その過程で、史実の複雑さや多面性は時に単純化され、特定のイメージ(例えば、島津武士=勇猛果敢、戦闘狂的、犠牲的精神の塊など)が強調される傾向にあります。しかし、それは同時に、歴史に詳しくない層にもアピールしやすくなるという利点も持ち合わせています。『ドリフターズ』で描かれる島津武士の常軌を逸した戦闘スタイルや死生観は、海外の一部のファンにとって、いわば「Extreme Japan(過激で刺激的な日本)」の魅力として映る可能性があります。切腹や特攻隊など、日本の歴史や文化の中に見られる自己犠牲や極端とも言える行動様式は、しばしば海外で驚嘆や強い好奇心の対象となりますが、「捨てがまり」もまた、その系譜に連なるものとして捉えられているのかもしれません。あるレビューで「中二病も真っ青の妄想全開で戦争!」と評されているように 25、その過激さがエンターテイメントとしてのカタルシスを生み出し、ファンを惹きつけていると考えられます。この「過激さへの魅力」は、純粋な歴史的評価とは別に、現代における「捨てがまり」の海外受容の一つの重要な側面を形成していると言えるでしょう。

5. 「捨てがまり」を支えた薩摩隼人の気質と強さの源泉

 

関ヶ原の戦いにおける「捨てがまり」という、常軌を逸したとも言える壮絶な戦術を可能にしたのは、単なる命令や絶望的な状況だけではありませんでした。その背景には、薩摩(現在の鹿児島県)の武士たちが持つ独特の気質、通称「薩摩隼人(さつまはやと)」の精神と、それを育んだ厳格な教育、そして彼らが磨き上げた特異な武術と思想がありました。ここでは、その強さの源泉に迫ります。

5-1. 薩摩隼人の精神:「質実剛健」と郷中教育

「捨てがまり」のような過酷な戦術を、兵士たちが自らの意志で遂行し得た背景には、「薩摩隼人(さつまはやと)」と称される薩摩武士特有の気風が大きく影響しています。この気風は、一般的に「質実剛健(しつじつごうけん)」という言葉で表現され、外見を飾らず内面を磨き、心身ともに強くたくましいことを尊ぶ精神文化を指します。薩摩の伝統菓子「かるかん」でさえ、その清らかな白さとしっとりとした食感が、質実剛健を旨とする薩摩隼人の気質を体現すると言われるほど 27、この精神は薩摩の風土に深く根付いていました。

この薩摩隼人の独特な気質を幼少期から育んだのが、薩摩藩独自の青少年教育システムである「郷中教育(ごじゅうきょういく)」です。郷中教育は、同じ地域の少年たちが集まり、年長者が年少者を指導するという自治的な教育制度でした。そこでは、単に読み書きや武芸を教えるだけでなく、礼儀作法、義理人情、廉恥心(恥を知る心)、そして何よりも「負けるな」「嘘をつくな」「弱いものいじめをするな」といった、武士として、また人間としての基本的な道徳律や行動規範が、実生活を通じて徹底的に叩き込まれました。

郷中教育の規約として伝えられるものには、「忠孝を重んじ、文武を励め」「山坂達者であれ(困難に負けない強靭な心身を持て)」「何事も詮議をつくせ(よく話し合って決めよ)、決まったら議をいうな(一度決まったことには不平を言うな)、言い訳するな」といった項目が含まれており、困難に立ち向かう不屈の精神や、集団の規律と決定を重んじる姿勢を重視した教育であったことが明確にうかがえます。この厳しくも実践的な教育によって培われた精神的な強靭さ、仲間との固い結束、そして主君や藩に対する揺るぎない忠誠心こそが、関ヶ原のような極限状況下での「捨てがまり」という自己犠牲的な行動を支える大きな力となったと言えるでしょう。

郷中教育は、年長者から年少者への一方的な指導だけでなく、仲間同士での議論、いわゆる「詮議(せんぎ)」を重んじた点も特徴的です。しかし、一度集団としての決定が下されれば、それに異を唱えることは許されず、個人の意見よりも集団の目標達成が優先されました。このような教育は、集団への帰属意識や貢献を重視する価値観を深く内面化させ、自己の犠牲を伴う行為への心理的な抵抗感を低減させる効果があったのかもしれません。「山坂達者であれ」という教えは、単に身体を鍛えるだけでなく、厳しい自然環境や困難な状況の中で生き抜くための知恵や精神力を養うものでした。この「生き抜くための強さ」の追求が、逆説的に、いざという時には「名誉ある死を選ぶ覚悟」にも繋がったのではないでしょうか。「薩摩隼人」が「逞しく勇猛である」と称されるのは、この生きる力と死の覚悟が表裏一体となった、強靭な精神の現れなのかもしれません。「捨てがまり」は、単なる死への逃避ではなく、組織を生かすための最後の手段としての「死の選択」であり、その背景には郷中教育によって培われた、薩摩隼人ならではの強靭な精神があったと考えられます。

5-2. 示現流剣術:一撃必殺に込めた覚悟

薩摩隼人の気質と戦闘能力を語る上で欠かせないのが、薩摩藩で独自に発展を遂げた特異な剣術「示現流(じげんりゅう)」の存在です。示現流は、他の多くの剣術流派とは一線を画す、極めて攻撃的な思想を持つ剣術として知られています。その最大の特徴は、初太刀、すなわち最初の一撃に全神経と全生命力を集中させ、一撃で敵を仕留めることを至上命題とする点にあります。

ある資料によれば、「示現流は非常に強力な初太刀を重視する。その考え方は、一撃があまりにも強いため、もし防がれたとしても、相手の刀の背が防御側に押し戻され、相手を無力化するか、少なくとも隙だらけにするというものだ」と説明されており、その圧倒的な攻撃性がうかがえます。幕末に活躍した新選組局長・近藤勇でさえ、「示現流の初太刀は(受けるのではなく)必ず避けよ」と部下に忠告したと伝えられるほど、その一撃の威力と気迫は他の武芸者たちからも恐れられていました。

この「一撃必殺」の思想は、防御をほとんど考慮せず、ただひたすらに敵を倒すことのみに集中するという、ある意味で極端なものです。この精神性は、「捨てがまり」において、自らの生還を度外視し、ただ主君のために敵の追撃を食い止めるという、薩摩兵たちの自己犠牲の精神と深く通底するものがあると言えるでしょう。「二の太刀要らず」とまで言われる示現流の思想は、後のことを考えず、ただ目の前の一撃に全力を注ぎ込むというものであり、これは「捨てがまり」において、生還を期さずに目の前の敵を足止めすることに専念する兵士たちの姿と見事に重なります。防御を度外視した攻撃性は、まさに「死中に活を求める」、あるいは「死を覚悟してこそ活路が開ける」という、薩摩武士の極端なまでの現実主義と精神主義が融合した思想を体現していると言えるでしょう。ある剣豪の「本質的に『良き死を遂げる』」という言葉も 、この独特の死生観と深く関連している可能性があります。

示現流の稽古は非常に厳しく、立ったままの姿勢から、太い木刀で立木や丸太を相手に、猿叫(えんきょう)と呼ばれる独特の掛け声と共に、ひたすら打ち込みを繰り返すというものです。この反復練習を通じて、恐怖心を克服し、一瞬の勝機を逃さないための精神力と、一撃に全てを込めるための技術を磨き上げます。この特異な剣術が、薩摩武士の勇猛さと個々の戦闘能力をさらに高め、彼らを戦国時代屈指の精強な兵士集団へと鍛え上げた重要な要因の一つと考えられます。「捨てがまり」は集団で行われる戦術ですが、その効果は個々の兵士の戦闘能力に大きく依存します。示現流のような強力な個人戦闘術を身につけた兵士が多ければ多いほど、「捨てがまり」部隊はより効果的に敵を足止めし、本隊の撤退時間を稼ぐことができたはずです。つまり、郷中教育による精神的な結束力と、示現流のような武術による個人の戦闘能力の向上が、互いに影響し合いながら相乗効果を生み出し、それが薩摩武士の比類なき強さを形成し、ひいては「捨てがまり」のような特異な戦術の実行を可能にしたと言えるでしょう。

 

5-3. 島津義弘のリーダーシップと家臣との絆:苦難を共にする姿勢

「捨てがまり」という、兵士たちに究極の自己犠牲を強いる戦術が、なぜ島津軍において実行可能であったのか。その理由を考える上で、総大将であった島津義弘自身のリーダーシップと、彼と家臣たちとの間に築かれた深い信頼関係を抜きにして語ることはできません。島津義弘は、単に勇猛な武将であっただけでなく、家臣たちから深く敬愛され、慕われた人物でした。そのリーダーシップの核心は、家臣たちと苦楽を共にし、身分や立場の違いに関わらず、一人ひとりに細やかな配慮を示すという姿勢にありました。

その人間味あふれるリーダーシップを象徴する逸話として、朝鮮出兵時の出来事が伝えられています。厳寒の朝鮮半島において、多くの日本軍の部隊が凍死者を出す中で、島津隊からは一人の凍死者も出なかったと言われています。その理由は、義弘自らが兵士たちと同じように地面に雑魚寝し、共に暖を取り、寝食を共にすることで、部下たちの士気を高め、細心の注意を払っていたからだとされています。この話は、他ならぬ豊臣秀吉配下の勇将・加藤清正の耳にも入り、彼を深く感心させたと伝えられています。

また、義弘は家臣の子どもが生まれると、その親子を自らの屋敷に招き入れ、赤子を自身の膝に抱きかかえながら「子は宝なり」と述べ、丁重にその誕生を祝ったとされています。このような行動は、義弘が家臣とその家族を大切に思う、情の深い人物であったことを示しています。関ヶ原の戦いからの過酷な撤退戦の最中、貴重な馬肉を兵士たちに優先して与え、自身は口にしなかったとされるエピソードもまた、このような義弘の普段からの姿勢が、極限状況下においても一貫して現れたものと言えるでしょう。

こうした義弘の「共に在る」リーダーシップは、部下からの絶対的な信頼と尊敬を集め、島津軍内部に強固な一体感と忠誠心を生み出しました。権威を振りかざすのではなく、部下と同じ目線に立ち、喜びも苦しみも分かち合うという姿勢こそが、家臣たちの心を掴んだのです。「捨てがまり」のような、文字通り命を投げ出すことを求める過酷な命令も、このような深い信頼関係があればこそ、家臣たちは主君の意図を理解し、自ら進んでその任に就いた可能性があります。島津義弘が亡くなった際には、実に13名もの家臣が後を追って殉死したという事実は、彼らが義弘に対して抱いていた忠誠心がいかに強烈なものであったか、そしてその絆がいかに深かったかを雄弁に物語っています。この殉死は、義弘が示した「家臣を大切にする」という姿勢に対する、家臣たちからの究極の「返礼」とも解釈できるかもしれません。「捨てがまり」で命を捧げた兵士たちもまた、ある意味では主君への「殉死」にも似た、絶対的な覚悟を持っていたと言えるのではないでしょうか。

6. 関ヶ原後の島津家と「捨てがまり」の遺産

関ヶ原の戦いは西軍の惨敗に終わり、西軍に与した多くの大名は改易(領地没収)や大幅な減封(領地削減)という厳しい処分を受けました。しかし、島津家は徳川家康に敵対したにもかかわらず、本領である薩摩・大隅・日向の三国、実に70万石余の領地を安堵されるという、敗軍の将としては異例とも言える結果を手にします。この背景には、関ヶ原で見せた島津軍の恐るべき戦いぶりと、その後の巧みな外交交渉がありました。「捨てがまり」という壮絶な犠牲は、決して無駄ではなかったのです。

6-1. 巧みな戦後交渉:本領安堵を勝ち取った背景

関ヶ原の戦いで西軍の一翼を担い、徳川家康に弓を引いた島津家でしたが、戦後の処分においては驚くべき粘り強さを見せ、最終的には本領安堵という破格の条件を勝ち取りました。これは、他の西軍大名が厳しい処断を受けたことを考えると、まさに異例の事態であったと言えます。

この成功の背景には、まず、当時の島津家当主であった島津義久(義弘の兄)による、老獪かつ巧みな外交交渉がありました。義久は、関ヶ原における弟・義弘の行動は島津家の総意ではなく、一部の者の暴走であったかのように釈明しつつも、一方で島津家が持つ強大な武力を巧みにちらつかせ、徳川家康に対して一歩も引かない強気の交渉を展開したとされています。ある資料では、「島津義弘はしたたかな戦後交渉の末、領土を守り抜き、自身も処罰されずに済んでいます」「関ヶ原の戦い終結から2年がかりの交渉戦は、島津義弘の粘り勝ちでした」と記されていますが、実際には本国で指揮を執った義久や、彼を支えた家臣団の外交努力が非常に大きかったと考えられます。

徳川家康の側にも、島津家に対して強硬策を取りにくい事情がありました。まず、薩摩は日本の最西南端に位置し、中央から遠く離れた独立性の高い地域でした。成立したばかりの徳川政権にとって、遠方の強大な島津家を武力で完全に屈服させるためには、莫大な戦費と時間、そして多くの兵士の犠牲が必要となることは明らかでした。また、家康としては、国内の混乱を早期に収拾し、安定した統治体制を一日も早く確立したいという強い思惑がありました。そのため、島津家を完全に制圧するよりも、一定の自治を認めた上で恭順させる方が、政権の安定にとってはるかに得策であると判断した可能性が高いのです。

そして何よりも、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」で見せつけた、島津軍の常軌を逸した戦闘能力と、死をも恐れぬ強固な結束力は、家康をはじめとする東軍の諸将に「島津恐るべし」という強烈な印象を植え付けました。この「武」の力が、家康に島津討伐という強硬策を躊躇させ、結果として交渉のテーブルに着かせる大きな要因となったことは間違いありません。島津家は、「捨てがまり」や敵中突破という「武」の力を見せつける一方で、粘り強い外交交渉という「文」の力も巧みに駆使しました。この硬軟織り交ぜた戦略こそが、徳川家康という老獪な相手から最大限の譲歩を引き出すことに成功した大きな理由と言えるでしょう。

6-1-1. キーマン井伊直政との関係

島津家と徳川家の戦後講和交渉において、非常に興味深く、また重要な役割を果たしたとされる人物がいます。それは、他ならぬ井伊直政です。井伊直政と言えば、関ヶ原の戦いで島津軍の「捨てがまり」によって重傷を負わされ、その傷が後の死因の一つになったとも言われる、島津にとっては因縁浅からぬ相手でした。

しかし、驚くべきことに、島津義弘はこの井伊直政に和平交渉の仲介を依頼し、直政もまた、その依頼に応えて徳川・島津間の講和成立のために奔走したと伝えられています 32。敵将であり、しかも自らに深手を負わせた相手のために、なぜ井伊直政が尽力したのか、その正確な理由は歴史の謎の一つとされています。しかし、そこには戦場で互いの力量を認め合った武人同士の通い合う何かがあったのかもしれません。あるいは、徳川家康の側近として、島津家の持つ底知れぬ力を誰よりも身をもって理解していた直政が、島津家を敵に回し続けることの不利を悟り、早期の和解こそが徳川家にとっても最善の策であるという、極めて現実的かつ戦略的な判断を下した可能性も考えられます。

井伊直政は、島津家だけでなく、西軍の総大将であった毛利輝元との講和交渉においても重要な役割を担っており、関ヶ原の戦後処理における彼の政治的手腕と影響力の大きさがうかがえます。この井伊直政の介在が、島津家にとって比較的有利な条件で徳川家との講和が成立した大きな要因の一つであったと考えられています。

このエピソードは、戦場での敵対関係が、必ずしもその後の人間関係や政治的判断を決定づけるわけではないという、戦国時代の武士社会の複雑な一面を示しています。井伊直政は、島津兵の銃撃によって負った「傷」を通じて、島津という存在の重みを誰よりも痛感したはずです。しかし、その個人的な怨恨を超えて、講和に尽力したという事実は、彼が極めて大局的な視野を持った優れた政治家でもあったことを証明しています。あるいは、この「傷」という強烈な体験が逆に、島津という存在を直政に深く意識させ、無視できない重要な相手として真摯に向き合うきっかけになった、という逆説的な解釈も成り立つかもしれません。歴史の皮肉と、人間関係の機微を感じさせる、非常に興味深い出来事と言えるでしょう。

6-2. 現代に受け継がれる精神:妙円寺詣りとその意義

島津義弘の不屈の精神、家臣たちの忠義、そして関ヶ原の戦いにおける「捨てがまり」を含む苦難の撤退行。これらの記憶と遺徳を偲び、その精神を現代に、そして未来へと語り継ぐための行事が、鹿児島県日置市において毎年秋に盛大に開催されています。それが「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」です。

この妙円寺詣りとは、関ヶ原の戦いから九死に一生を得て薩摩へ生還した島津義弘が、晩年を過ごしたとされる菩提寺・妙円寺(現在は廃仏毀釈の影響で徳重神社となり、その後移転再興された妙円寺も存在します)までの道のりを、多くの参加者が鎧兜に身を包んだり、当時の衣装を模した姿で練り歩くという伝統行事です。その道のりは、かつて義弘が薩摩への帰還を果たした際の苦難を追体験するかのようです。

この行事は、単なる賑やかなお祭りとしてだけでなく、島津義弘公の困難に屈しない不屈の精神や、彼を支えた家臣たちの揺るぎない忠義を、自らの足で歩くことを通じて学び、体験し、自己を鍛錬するという深い目的を持っています。実際に参加した小学生が「みんなとおしゃべりしながら、遠いところまでやってきて、それを達成する感が楽しかったです!」と語っているように、特に次代を担う子どもたちにとっては、郷土の歴史に触れ、困難を乗り越える達成感を味わう貴重な教育的機会ともなっています。

妙円寺は、明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって一度は完全に焼失するという悲運に見舞われましたが、その7年後には仏教禁止令が解かれ、現在の地に復興されました。このような歴史の変遷を経ながらも、妙円寺詣りは鹿児島の三大行事の一つとして今日まで大切に受け継がれており、400年以上前に「捨てがまり」という壮絶な戦術に象徴された薩摩隼人の不屈の精神が、形を変えながらも現代の鹿児島に確かに生き続けていることを力強く示しています。この行事に参加する人々は、義弘公や家臣たちの苦難に思いを馳せながら、郷土への愛と誇りを再確認し、その精神を未来へと繋いでいくことでしょう。

7. まとめ:「捨てがまり」が問いかけるもの – 現代への教訓

関ヶ原の戦いにおける島津軍の「捨てがまり」は、その壮絶さ、実行した兵士たちの自己犠牲の精神、そしてそれを可能にした島津義弘のリーダーシップと薩摩隼人の気質において、日本の戦国史の中でも特異な輝きを放っています。

絶望的な状況下で、主君を生かすために少数の兵が次々と命を散らしていくこの戦術は、現代の価値観から見れば非情かつ非合理的に映るかもしれません。しかし、当時の武士道精神や主従関係、そして「家」の存続を最優先とする社会背景を考慮すると、それは究極の忠誠と組織防衛の一形態であったとも言えます。

海外の反応は、「驚嘆すべき勇気」と「理解しがたい狂気」の間で揺れ動き、文化的背景の違いによって多様な解釈が生まれています。軍事史的には遅滞行動の一種と分析されつつも、その「全滅前提」という特異性は、他の類似戦術と比較して際立っています。また、漫画『ドリフターズ』などのポップカルチャーを通じて、その過激なイメージと共に海外の若年層にも認知され、ある種のカリスマ性を帯びて語られている現状も見逃せません。

「捨てがまり」を支えた薩摩隼人の「質実剛健」の精神、厳しい郷中教育、そして「一撃必殺」の示現流剣術は、極限状態での判断力と実行力を養いました。島津義弘の家臣と苦楽を共にするリーダーシップは、絶対的な忠誠心を引き出し、この過酷な戦術の実行を可能にしたと言えるでしょう。

関ヶ原後の巧みな交渉により、島津家は本領安堵を勝ち取りました。これは、「捨てがまり」を含む関ヶ原での奮戦が、徳川家康に島津の武威を強烈に印象づけ、外交交渉を有利に進める一助となった可能性を示唆しています。そして、その精神は「妙円寺詣り」という形で現代にも受け継がれ、郷土の誇りとして生き続けています。

「捨てがまり」の物語は、私たちに多くの問いを投げかけます。組織と個人、合理性と精神性、そして極限状況における人間の選択とは何か。この戦術の是非を単純に論じるのではなく、その背景にある歴史的・文化的文脈を深く理解し、そこから現代社会にも通じる普遍的な教訓や人間のあり方について考えることこそが、この壮絶な歴史の記憶を未来へ繋いでいく上で重要なのではないでしょうか。

↓こちらも合わせて確認してみてください↓

ロイロノートの使い方

↓YouTubeで動画公開中♪↓

YouTubeアカウントはこちらから

↓TikTokも更新中♪↓

TikTokアカウントはこちらから

↓お得商品はこちらから♪↓

こちら!!