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平賀源内の最期:天才はなぜ獄死したのか?殺傷事件の真相と謎に迫る
江戸時代中期、エレキテル(静電気発生装置)の復元や「土用の丑の日」の発案者として、その名を歴史に刻んだ天才・平賀源内。発明家、作家、蘭学者、画家と、まさに「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称されるべき多才な人物でした。しかし、その輝かしい功績とは裏腹に、彼の晩年は困窮と焦燥に満ち、最後は殺傷事件を起こして獄死するという、あまりにも悲劇的な幕切れを迎えます。
一体なぜ、あれほどの天才が人をあやめ、牢獄で命を落とさなければならなかったのでしょうか。この記事では、「平賀源内 最期」と検索するあなたの疑問に答えるため、彼の晩年から殺傷事件の真相、そして謎に包まれた死の真相まで、様々な説を徹底的に掘り下げて解説します。
江戸の天才、平賀源内とは何者か?その多才な業績を振り返る
平賀源内の悲劇的な最期を理解するためには、まず彼がいかに非凡な人物であったかを知る必要があります。彼の功績は、一つの分野に収まるものではなく、その才能はまさに縦横無尽に広がっていました。
エレキテルだけじゃない!発明家、作家、プロデューサーとしての顔
平賀源内と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、静電気発生装置「エレキテル」でしょう。しかし、それは彼の業績のほんの一端に過ぎません。彼は、現代でいうところの科学者、作家、芸術家、そしてプロデューサーやコピーライターの役割まで一人でこなす、驚異的な「マルチクリエイター」でした。
源内の多岐にわたる活動は、以下のリストからも一目瞭然です。
- 発明家・科学者として
- エレキテルの復元: 長崎で手に入れたオランダ製の破損したエレキテルを、わずかな知識を元に6年もの歳月をかけて修理・復元しました。これは日本の電気研究の先駆けとなる偉業でした。
- 火浣布(かかんぷ)の開発: 燃えない布、つまり石綿(アスベスト)を用いた耐火布を開発しました。
- 寒暖計(温度計)の製作: 日本で初めて実用的なアルコール温度計を製作し、「日本創製寒熱昇降器」と名付けました。
- 作家・芸術家として
- 戯作者(げさくしゃ): 「風来山人(ふうらいさんじん)」などのペンネームで、『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』や『根南志具佐(ねなしぐさ)』といった滑稽本を次々と発表し、江戸のベストセラー作家となりました。
- 浄瑠璃作家: 浄瑠璃(人形劇)の脚本も手掛け、代表作『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』は今日でも上演される不朽の名作です。
- 西洋画家・陶芸家: 日本における西洋油絵の先駆者の一人であり、また「源内焼」と呼ばれる独特の美しい陶器も生み出しました。
- プロデューサー・コピーライターとして
- 「土用の丑の日」の発案: 夏場に鰻が売れずに困っていた知人の鰻屋のために、「本日 土用丑の日」というキャッチコピーを考案。これが大ヒットし、現在まで続く食文化を創り出しました。
- 日本初の博覧会を主催: 全国の珍しい産物や薬品を集めた「物産会」を日本で初めて企画・開催し、大成功を収めました。これは博物学の発展に大きく貢献しました。
このように、源内の真のすごさは、単に多才であっただけでなく、海外の知識(蘭学)を吸収し、それを日本の実情に合わせて応用し、さらには大衆に分かりやすく広めるという卓越したプロデュース能力にありました。しかし、このあまりにも時代を先取りした活動スタイルと、特定の藩に仕えない自由な生き方が、後の彼の孤立と悲劇につながっていくのです。
杉田玄白や田沼意次とも交流?江戸の重要人物との関係性
平賀源内は孤高の天才ではなく、当時の江戸を代表する知識人や権力者たちと深いネットワークを築いていました。彼の才能と人間的魅力が、身分や分野の垣根を越えて多くの人々を引きつけたのです。
特に重要なのが、以下の二人の人物との関係です。
- 杉田玄白(すぎた げんぱく)『解体新書』の翻訳で知られる蘭方医・杉田玄白は、源内の生涯を通じての「親友」でした。二人は本草学(薬物学)の研究会で出会い、互いの才能を深く尊敬し合いました。玄白が『解体新書』を出版する際には、源内が西洋画の心得がある弟子を紹介するなど、協力関係にありました。小浜藩の藩医という安定した身分の玄白と、フリーランスとして自由に活動する源内。対照的な立場でありながら、二人の間には固い友情が結ばれていました。
- 田沼意次(たぬま おきつぐ)当時の幕府で絶大な権力を誇った老中・田沼意次は、源内の才能を高く評価し、支援を惜しまない強力なパトロンでした。商業を重視する革新的な政策を進めた意次にとって、源内の斬新な発想や事業は非常に魅力的だったのです。意次は源内を長崎へ遊学させるなど、その活動を後押ししました。しかし、この政治権力との近すぎる関係は、諸刃の剣でもありました。源内がスキャンダルを起こした際、政治的な立場を守るために意次は彼を見捨てざるを得なくなり、源内は強力な庇護者を失うことになります。
これらの人間関係は、源内が江戸の知的・政治的な中心人物であったことを証明しています。しかし同時に、彼の立場の危うさも浮き彫りにします。安定した組織に属する玄白とは異なり、源内の成功は田沼意次という一個人の権力者の気まぐれな庇護の上に成り立つ、砂上の楼閣のようなものだったのです。
悲劇の幕開け:平賀源内、最期の日々へ
輝かしい業績を積み重ね、江戸中にその名を知られた源内でしたが、その人生の歯車は晩年、少しずつ狂い始めます。華やかな活躍の裏で、彼は深刻な苦悩と焦りに静かに蝕まれていきました。
忍び寄る晩年の苦悩と焦り
源内の悲劇は、ある日突然訪れたわけではありません。それは、長年にわたる精神的な疲弊と絶望が積み重なった結果でした。晩年の彼を追い詰めた要因は、主に3つ挙げられます。
- 深刻な経済的困窮彼の発明や事業は話題にはなるものの、多くが商業的な成功には結びつきませんでした。特に、鉱山開発事業では莫大な負債を抱え、一説には現在の価値で20億円もの赤字を出したとも言われています。彼は自らを「貧家銭内(ひんかぜにない)」と自嘲するほど、経済的に追い詰められていました。戯作や浄瑠璃の執筆も、生活費を稼ぐための苦肉の策だったのです。
- 世間からの無理解と孤独源内の発想はあまりにも先進的すぎて、時代が彼に追いついていませんでした。多くの人々は彼のことを、一時の話題を提供するだけの山師(詐欺師、投機家)と見なし、正当に評価しませんでした。さらには、弟子がエレキテルの偽物を造って詐欺を働く事件も起き、彼の評判を傷つけました。晩年に詠んだ句「功ならず名斗(ばかり)遂(とげ)て年暮ぬ」(名声ばかりで何の功績も挙げられぬまま、また一年が終わる)には、世間に認められない焦りと絶望が色濃く表れています。
- 精神的な不安定度重なる事業の失敗、借金、そして周囲からの無理解は、源内の心を少しずつ蝕んでいきました。晩年の彼は奇行が目立ち、些細なことで癇癪を起すことが多かったと、親しい人々によって記録されています。天才ゆえのプライドと、理想通りにいかない現実とのギャップが、彼の精神を不安定にさせていたのです。
このように、殺傷事件という破局は、長年にわたるストレスと絶望が臨界点に達した、悲劇的な爆発だったと考えることができます。
安永8年11月21日、運命を変えた殺傷事件の発生
安永8年(1779年)夏、源内は神田橋本町に居を移します。しかし、この家は以前の住人が悪事を働いて追放され、その子供も井戸に落ちて死んだという噂が立つ、いわくつきの「凶宅」でした。あえてこのような不吉な家を選んだこと自体が、彼の追い詰められた精神状態を象徴しているかのようです。
そして、この家に移り住んでから半年も経たない、同年11月21日のことでした。運命を決定的に変える事件が発生します。
酒に酔っていたのか、あるいは何かに激昂したのか、源内は刀を抜き、家にいた大工の棟梁2人(久五郎、丈右衛門など複数の名が伝わる)に斬りかかり、1人を殺害、もう1人に重傷を負わせてしまったのです。
正気に戻った源内は、自らの行いに絶望し、その場で切腹しようとしますが、知人に止められます。そして彼は逃亡することなく、自ら奉行所に出頭し、罪を認めました。江戸中にその名を知られた有名人による殺人事件は、一大スキャンダルとして市中を騒然とさせました。混乱の最中に見せた自首という行動は、彼の心の奥底に残っていた最後の理性と、深い後悔の念を物語っているのかもしれません。
平賀源内殺傷事件の真相は?謎に包まれた動機を徹底解剖
平賀源内は、一体なぜ人を殺傷するという凶行に及んでしまったのでしょうか。この事件の動機は、今なお多くの謎に包まれており、様々な説が唱えられています。ここでは、代表的な3つの説を比較しながら、その真相に迫ります。
【通説】設計図の盗難を疑った勘違いと乱心
事件の動機として、最も広く知られ、有力視されているのがこの「勘違い・乱心説」です。
この説の要点は、源内が自身で作成した大名屋敷の修理に関する設計図や見積書、あるいは執筆中の原稿といった重要な書類が盗まれたと激しく思い込み、その犯人だと疑った大工たちを問い詰めるうちに逆上して斬りつけてしまった、というものです。
悲劇的なことに、事件の後で源内が身辺を整理していると、盗まれたと思っていた書類が全く別の場所から見つかった、という話も伝わっています。もしこれが事実であれば、すべては彼の妄想と勘違いが生んだ惨劇だったことになります。
この説を裏付けるのが、親友・杉田玄白の言葉です。玄白は後に源内の墓碑銘を記す際、事件の原因を「狂病(きょうびょう)」、つまり精神の病であったと断じています。長年の心労が彼の精神を蝕み、正常な判断ができない状態にあったという見方です。
この「乱心説」は、同時代の文筆家である滝沢馬琴らの記録にも見られることから、当時から広く受け入れられていたようです。しかし、ここには一つの解釈の余地があります。それは、親友であった玄白が、源内の名誉を守るために、あえて「病」が原因であったと公言した可能性です。単なる殺人犯として歴史に残すのではなく、病によって凶行に及んでしまった悲劇の天才として後世に伝えるための、玄白による最後の友情だったのかもしれません。
【陰謀説】薬物漬けにされ、黒幕にはめられた悲劇の天才
天才の最期には、もっと壮大な理由があったはずだ——。そうした思いから生まれたのが、源内が政治的な陰謀に巻き込まれたという「陰謀説」です。
この説は、特に近年の歴史ドラマや小説で好んで描かれる筋書きで、非常にドラマチックな内容となっています。その概要はこうです。
- 発端: 源内はパトロンである田沼意次の依頼を受け、謎の死を遂げた将軍の世子・徳川家基(とくがわ いえもと)の死因を極秘に調査していた。
- 真相の察知: 調査の結果、源内は家基が毒を仕込まれた手袋によって毒殺されたという真相にたどり着く。
- 口封じの罠: 真相を知りすぎた源内を消すため、事件の黒幕(一橋治済などが想定される)が、配下の大工たち(久五郎ら)を源内に接近させる。彼らは源内を油断させ、アヘンのような薬物を混ぜた煙草を吸わせて、幻覚や妄想を見やすい状態に陥れた。
- 犯人への偽装: 源内が薬物で心神喪失状態に陥った隙に、黒幕の配下が大工の一人を殺害。そして、血に濡れた刀を源内の手に握らせ、彼を殺人犯に仕立て上げた 22。
この陰謀説は、源内を悲劇のヒーローとして描くものであり、物語としては非常に魅力的です。しかし、この説を直接的に裏付けるような、信頼性の高い同時代の歴史資料はほとんど見当たりません。そのため、歴史的事実というよりは、天才の不可解な死をドラマチックに解釈しようとする、後世の創作の色合いが濃い説と考えるのが妥当でしょう。
【その他の説】男色をめぐるトラブルや積年の鬱憤
上記の二大セオリーの他にも、源内のより個人的な事情に動機を求める説も存在します。
一つは、男色(なんしょく)をめぐるトラブル説です。源内は生涯妻帯せず、歌舞伎役者を贔屓にするなど、男色家であったことが知られています。そのため、事件は恋愛感情のもつれや、嫉妬などが原因で起きたのではないか、という推測です。
もう一つは、特定の引き金があったわけではなく、長年の鬱憤が爆発したという説です。度重なる事業の失敗による経済的困窮や、世間に才能を認められない焦燥感といった、積年の不満や怒りが何かのきっかけで一気に噴出し、たまたまその場に居合わせた大工たちが犠牲になった、という見方です。
これらの説は、事件の原因を「設計図」のような具体的なモノや「陰謀」のような大きな話に求めるのではなく、源内という一人の人間の内面にあった苦しみや葛藤に焦点を当てています。もしかすると、真相はこれら複数の要因が複雑に絡み合った結果だったのかもしれません。
平賀源内殺傷事件・動機をめぐる諸説比較
これら複雑な説を整理するため、以下の表にまとめました。それぞれの説の根拠や背景を比較することで、事件の多面性が見えてきます。
説 (Theory) | 動機の概要 (Motive Outline) | 主な根拠・背景 (Main Evidence/Background) | 典拠となる資料・言及 (Source Materials/Mentions) |
勘違い・乱心説 (Misunderstanding/Madness Theory) | 大名屋敷の設計図や自身の稿本が盗まれたと勘違いし、激昂して犯行に及んだ。背景に精神的な疲弊と錯乱(狂病)があったとされる。 | 親友・杉田玄白による墓碑銘の記述「狂病シテ人ヲ殺シ」。滝沢馬琴など同時代の文筆家による記録。事件後に書類が見つかったという逸話。 | |
政治的陰謀説 (Political Conspiracy Theory) | 田沼意次の命で徳川家基の死の真相を探り、毒殺の証拠を掴んだため、黒幕(一橋治済など)に口封じで罠にはめられた。 | 薬物(阿片など)を盛られ、幻覚状態で犯人に仕立て上げられたとされる。主に現代の歴史ドラマや小説で描かれる筋書き。 | |
その他の説 (Other Theories) | 男色関係のもつれや、長年の事業失敗・経済的困窮による鬱憤が爆発したなど、個人的な動機が原因とする説。 | 源内が男色家であった史実。晩年の経済的苦境と、世間に認められない焦りを綴った書簡や句。 |
伝馬町牢屋敷での最期と死の真相
自首の後、源内が送られたのは江戸の小伝馬町にあった牢屋敷でした。ここでの生活は彼の心身をさらに蝕み、逮捕からわずか1ヶ月足らずで、彼はその生涯を閉じることになります。
この世の地獄と呼ばれた牢獄の劣悪な環境
伝馬町牢屋敷は、現代の刑務所とは全く異なる、まさに「この世の地獄」と形容される場所でした。蘭学者の小関三英が、幕府に逮捕されると知るや「あのような過酷な牢屋暮らしでは生きていけない」と自害を選んだほど、その環境は劣悪を極めていました。
- 不衛生と過密: 牢内には窓がなく、日光も風も通らないため、常に薄暗く湿気が充満していました。畳1枚に何人もの囚人が押し込められ、横になって眠ることすら許されないこともありました。このような環境では皮膚病などの病気が蔓延するのは当然でした。
- 囚人による自治と暴力: 牢内は役人の権限が及ばない、囚人による自治制が敷かれていました。「牢名主(ろうなぬし)」と呼ばれるボスを頂点とする厳しい身分制度があり、新入りの囚人は手荒い尋問や儀礼を受けました。金品を差し出せない者は虐待され、時には見せしめに殺害されることもありましたが、それらは「病死」として処理され、表沙汰になることはありませんでした。
- 乏しい食事と過酷な気温: 食事は1日に2回、玄米と汁物、漬物だけが基本でした。夏は蒸し風呂のような暑さ、冬は凍えるような寒さに耐えなければなりませんでした。
このような牢獄の惨状を知れば、いかに強靭な精神と肉体の持ち主であっても、生きて出ることがいかに困難であったかが想像できます。この環境こそが、源内の死の直接的な引き金となったのです。
死因は破傷風か、それとも…?複数の説を比較検証
安永8年12月18日、平賀源内は伝馬町牢屋敷で息を引き取りました。享年52歳。そのあまりにも早い死は、彼の死因についても様々な憶測を呼びました。
- 【最有力説】破傷風(はしょうふう)医学的な見地から最も有力とされているのが、破傷風による病死です。破傷風は、傷口から破傷風菌が体内に侵入することで発症する感染症です。殺傷事件の際に負った自らの傷、あるいは獄中でできた小さな傷口から菌が入り込み、伝馬町牢屋敷の不衛生きわまりない環境がそれを増殖させ、死に至らしめたと考えられています。産婦人科・感染症の専門医である早川智教授(日本大学)も、この破傷風説が有力であると指摘しています。
- 【その他の説】破傷風説が最も合理的である一方、いくつかの異説も存在します。
- 自殺説: 自分の犯した罪を悔い、絶望した源内が、牢内で絶食して自ら死を選んだという説です。
- 毒殺説: 陰謀説と連動するもので、口封じを狙う黒幕が、牢内の役人を買収するなどして源内を毒殺したという説です。
- 生存説: 最もロマンのある説がこれです。源内の才能を惜しんだパトロンの田沼意次が、密かに手を回して源内の死を偽装。牢獄から彼を脱出させ、自身の領地で医者として80歳近くまで生かした、というものです。
この「生存説」は、天才のあまりにも惨めで不条理な死を認めたくないという、後世の人々の強い願いが生み出した物語と言えるでしょう。それは、平賀源内という人物が、いかに人々の心に強い印象を残したかの証でもあります。
辞世の句「乾坤の 手をちぢめたる 氷かな」に込められた想い
源内が死の直前に詠んだとされる辞世の句が、今に伝えられています。
乾坤(けんこん)の 手をちぢめたる 氷(こおり)かな
「乾坤」とは天地、つまり全世界を意味します。この句は一般的に、「この天地が凍りつくような冷たさの中で、私の手も縮こまってしまった」と解釈されます。牢獄の物理的な寒さと、誰からも見捨てられた孤独という精神的な冷たさが、身も心も凍えさせている、という源内の絶望と無念が込められているとされています。
しかし、この句の解釈には異論もあります。ある文献には、この句が詠まれたのは「心地たがへるまへに」、つまり精神に異常をきたす前であった、という前書きが記されているのです。もしこれが正しければ、この句は事件や投獄とは関係なく詠まれたことになり、厳密には「辞世の句」ではないことになります。
この句が本当に辞世の句であったかどうかは、今となっては確かめようがありません。しかし、彼の悲劇的な運命と、凍てつく牢獄で孤独に死んでいった最期を、これほどまでに的確に表現した句は他にないでしょう。だからこそ、この一句は人々の記憶の中で、平賀源内の最期と分かちがたく結びついているのです。
親友・杉田玄白が語る源内の死と、後世に残した墓碑銘
源内の突然の逮捕と獄死の知らせは、友人たちに大きな衝撃を与えました。その中でも、彼の死を最も深く悲しみ、その後の始末に奔走したのが、他ならぬ親友・杉田玄白でした。
「ああ非常の人…」玄白の悲痛な叫びと私財を投じた葬儀
玄白にとって、源内の事件はまさに「晴天の霹靂」でした。彼は源内のことを、常識の枠には収まらない「非常の人」と評し、その才能を誰よりも理解し、尊敬していました。
源内は罪人として獄死したため、幕府から正式な埋葬の許可は下りませんでした。遺体は引き取り手もなく、打ち捨てられる運命にありました。しかし、玄白はそれを黙って見過ごすことができませんでした。彼は、作家の平秩東作(へずつ とうさく)ら他の友人たちと共に、私財を投じて源内の遺体を引き取り、葬儀を執り行ったのです。罪人に関わることは、自らの社会的地位を危うくしかねない危険な行為でした。それでもなお、玄白は友への最後の義理を果たしたのです。
さらに玄白は、源内のために墓を建て、そこに不朽の墓碑銘を刻みました。
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)
現代語に訳すと、「ああ、常識外れの君は、常識外れの事を好み、その行いもまた常識外れであった。それなのに、なぜ死に様まで常識外れなのだ」といった意味になります。ここには、友の早すぎる非業の死を嘆く悲痛な叫びと、その類まれなる才能への尽きることのない賛辞、そして彼の犯した罪を「非常」であるがゆえの行いだったと庇う、精一杯の弁護が込められています。これは、玄白が親友に捧げた、最後の友情の証でした。
今、平賀源内に会える場所は?終焉の地と墓所を訪ねて
悲劇的な最期から約250年の時が流れた今も、私たちは平賀源内の魂に触れることができます。彼の墓所や記念館が、後世の人々によって大切に守り伝えられているからです。
- 平賀源内墓(東京都台東区橋場)杉田玄白らが建立した源内の墓は、東京都台東区橋場に現存しています 31。元々はこの地にあった総泉寺という寺の墓地でしたが、昭和3年(1928年)に寺が板橋区へ移転した際も、源内の墓だけは元の場所に残されました 32。罪人として亡くなった人物の墓が、後に国の史跡に指定されるのは極めて異例なことです。
- アクセス: 最寄り駅は東京メトロ日比谷線の南千住駅や三ノ輪駅ですが、どちらからも徒歩20分ほどかかります。都営バスを利用するのが便利です。「橋場二丁目」バス停が近くにあります。
- 平賀家の墓所(香川県さぬき市)源内の故郷である香川県さぬき市の平賀家菩提寺・自性院にも、彼の墓があります。こちらは、彼の死後に妹の婿養子が建てたとされています。
- 平賀源内記念館(香川県さぬき市)故郷さぬき市には、源内の遺品や資料を展示する「平賀源内記念館」があります。エレキテルの複製品や源内焼、著作物などが展示されており、彼の偉大な業績を体系的に学ぶことができます。
罪人として孤独な死を迎えた平賀源内。しかし、彼の遺した功績と、彼を想う友人たちの尽力によって、その名は歴史から消えることなく、今なお多くの人々を魅了し続けています。彼の墓が国の史跡として大切に保存されているという事実こそ、時代が彼の真価を証明した、何よりの証拠と言えるでしょう。
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