平賀源内: 天才の悲劇的な結末
弟子殺害、そして獄中での死
輝かしい功績とは裏腹に、平賀源内の最期は衝撃的なものでした。自ら弟子を殺害した罪で投獄され、失意のうちに病死するという、あまりにも悲しい結末をたどります。
安永8年 (1779年) 11月21日
大名屋敷の設計という重要な仕事の最中、設計図を盗まれたと疑い、激昂。大工の棟梁である秋田屋九五郎と門人の天野伴内を誤って殺害してしまいます。この衝動的な行動が、彼の運命を決定づけました。
事件直後
殺人者として捕縛され、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されます。当時の牢屋敷は衛生状態が非常に悪く、過酷な環境でした。
安永8年 (1779年) 12月18日
投獄からわずか一ヶ月足らずで、獄中で息を引き取ります。享年52歳。死因は、事件の際に自身も負った傷が原因の破傷風でした。誰にも看取られることなく、稀代の天才はその生涯を閉じました。
悲劇の引き金となった苦悩
なぜ彼は凶行に及んでしまったのか。その背景には、類まれなる才能を持つがゆえの巨大なプレッシャーと、彼を蝕んでいた深い苦悩がありました。
多才すぎるが故の重圧
源内は一人で何役もこなす万能の天才でした。下のグラフが示すように、彼の活動は多岐にわたり、常に複数の仕事を抱えていました。この過剰なプレッシャーと、研究開発に伴う絶え間ない資金難が、彼の精神を追い詰めていきました。
短気な性格と周囲との軋轢
天才肌にありがちな、非常に短気で癇癪持ちな性格だったと伝えられています。自身の才能に絶対的な自信を持っていたため、他者の意見に耳を貸さず、周囲との衝突が絶えませんでした。この気性の荒さが彼を孤立させ、悲劇の一因になったと考えられます。
絶え間ない資金難
発明や事業には莫大な資金が必要でしたが、必ずしも商業的に成功したわけではありませんでした。常に資金繰りに奔走し、借金取りに追われることもしばしば。経済的な困窮が、精神的な余裕を奪っていきました。
時代を超えた天才の功績
悲劇的な最期を遂げた源内ですが、彼が歴史に残した功績は計り知れません。発明家、作家、画家…。様々な顔を持つ彼の偉業の一部をご紹介します。カードをクリックして詳細をご覧ください。
エレキテル
オランダの書物を基に復元した静電気発生装置。
医療用としても注目を集め、大名や民衆の前で実演して人々を驚かせました。日本の科学技術史における画期的な発明です。
火浣布 (かかんぷ)
現在の石綿(アスベスト)で作られた燃えない布。
この布を幕府に献上し、その不思議な特性で世間の度肝を抜きました。彼のプロデュース能力の高さを示す逸話の一つです。
作家「風来山人」
人気戯作者として数々のベストセラーを執筆。
「風来山人」のペンネームで浄瑠璃や滑稽本を執筆し、江戸の文壇で流行作家となりました。代表作に『根南志具佐』などがあります。
秋田蘭画の指導
西洋画の技法を伝え、新しい画風を確立。
秋田藩で西洋画の技法を指導し、「秋田蘭画」と呼ばれる新しい絵画様式の誕生に大きく貢献しました。彼自身も優れた画家でした。
本草学者・物産会
全国の薬草や産物を集め、産業振興に貢献。
薬草の研究家として全国各地で物産会を開催しました。これは今でいう物産展の先駆けで、日本の産業発展に寄与しました。
土用の丑の日
「本日土用丑の日」という有名なコピーライター。
夏に売れない鰻屋のために「土用の丑の日に鰻を食べる」という習慣を考案したという説はあまりにも有名です。彼のマーケティングセンスが光ります。
親友・杉田玄白だけが見た素顔
彼の才能を誰よりも理解し、その死を心から悼んだ人物がいました。『解体新書』で知られる蘭方医、杉田玄白です。二人の友情が、源内の人間的な側面を浮き彫りにします。
かけがえのない友情
源内と玄白は、蘭学への情熱を通じて深い友情で結ばれていました。玄白にとって源内は「天下の奇才」であり、その常識にとらわれない才能を心から尊敬していました。源内が投獄された際、玄白は必死に助命を嘆願しましたが、その願いは届きませんでした。
危険を冒した秘密の埋葬
罪人として死んだ源内の亡骸は、本来なら正式な埋葬は許されません。しかし、親友の無残な最期を哀れんだ玄白は、危険を顧みず役人に働きかけ、亡骸を密かに引き取ります。そして、誰にも知られぬよう、総泉寺に埋葬したのです。墓石には、罪人であったことが分からぬよう、名前すら刻まなかったと言われています。
「嗟非常之人、好非常之事、行非常之事、終以非常死」
— 杉田玄白 (ああ、常識はずれの人間が、常識はずれのことを好み、常識はずれのことを行い、とうとう常識はずれの死に方で終わった)