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九州の由来を3分で解説!昔は「筑紫島」と呼ばれていた?

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九州は7県なのに、なぜ「九」の州?地名の由来と1300年の歴史を徹底解説

「九州」と聞くと、福岡、佐賀、長崎、大分、熊本、宮崎、鹿児島の7つの県を思い浮かべますよね。しかし、ここで一つの素朴な疑問が生まれます。「7県しかないのに、なぜ地名には『九』という数字が使われているのだろう?」と感じた経験はありませんか。実は、この数字のズレこそが、九州の持つ奥深い歴史を解き明かす鍵なのです。

この地名は決して間違いではなく、約1300年以上も前の日本の姿を今に伝える、生きた歴史の証人です。この記事では、「九州」という名前の由来から、古代の「9つの国」と現在の「7つの県」がどのようにつながっているのか、そしてその背景にある日本の大きな変革まで、誰にでも分かりやすく、そして詳しく解説していきます。地名に隠された壮大な歴史の旅へ、さあ出発しましょう。

結論:九州の由来は、約1300年前に定められた9つの「国」にあります

結論から申し上げますと、「九州」という名前の由来は、現在の「県」が生まれるずっと昔、今から約1300年前の「令制国(りょうせいこく)」という行政区分にさかのぼります。当時の九州島には、朝廷によって定められた9つの「国」が存在しており、その「九つの国々」をまとめて「九州」と呼んだのが始まりなのです。

この「令制国」という制度は、701年に定められた「大宝律令」という法律に基づいて全国に施行された、国家の仕組みそのものでした。それまで地域の豪族がそれぞれ治めていた土地を、天皇を中心とする中央集権国家として統一的に管理するために作られたのです。税を徴収し、人々を戸籍に登録し、国を守るための軍隊を組織する。そのための基盤となったのが、全国を60あまりに分けた「国」という単位でした。

九州島に置かれた9つの国は、具体的には以下の通りです。

  • 筑前国(ちくぜんのくに)
  • 筑後国(ちくごのくに)
  • 豊前国(ぶぜんのくに)
  • 豊後国(ぶんごのくに)
  • 肥前国(ひぜんのくに)
  • 肥後国(ひごのくに)
  • 日向国(ひゅうがのくに)
  • 薩摩国(さつまのくに)
  • 大隅国(おおすみのくに)

これらの名前は、現代でも駅名や地名、あるいは特産品の名前として各地に残っており、私たちの生活に深く根付いています。つまり、「九州」という呼び名は、この古代の行政区分がそのまま地名として定着した、歴史的な遺産なのです。

昔の9国と今の7県の関係は?一覧表でわかりやすく比較

それでは、かつての9つの国は、現在の7県にどのように変わっていったのでしょうか。この大きな変化が起こったのは、明治時代のことです。1871年(明治4年)に行われた「廃藩置県(はいはんちけん)」という大改革によって、江戸時代まで続いた「藩」が廃止され、現在の「県」が設置されました。この時に、古代から続く国の境界線が見直され、統合や分割が行われた結果、現在の7県体制が形作られたのです。

この廃藩置県は、封建的な武士の世を終わらせ、日本を近代的な統一国家へと生まれ変わらせるための、明治政府による一大プロジェクトでした。地域の結びつきや経済規模、地理的な条件などを考慮して、より効率的な行政単位として「県」が作られました。

例えば、海外との重要な窓口であった長崎と、近代化をリードした佐賀藩の中心地は、もともと同じ「肥前国」でしたが、それぞれの持つ重要な役割から長崎県と佐賀県に分かれました。一方で、広大な穀倉地帯であった「筑後国」と、アジアとの交易拠点・博多を擁する「筑前国」は、一つの強力な経済圏として福岡県に統合されました。

このように、9つの国と7つの県の関係を見ていくと、日本の近代化の歴史そのものが浮かび上がってきます。両者の関係を以下の表にまとめましたので、ぜひご覧ください。それぞれの国がどのような特徴を持っていたのかを知ると、現在の各県の個性や文化への理解がさらに深まるはずです。

旧国名 (Old Province Name) 読み方 (Reading) 現在の主な対応県 (Corresponding Modern Prefecture) 備考 (Notes)
筑前国 (Chikuzen-no-kuni) ちくぜんのくに 福岡県 古代からの対外交易の拠点、博多を含むエリアです。
筑後国 (Chikugo-no-kuni) ちくごのくに 福岡県 筑後川流域の豊かな穀倉地帯として知られます。
豊前国 (Buzen-no-kuni) ぶぜんのくに 福岡県・大分県 関門海峡に面し、交通の要衝でした。
豊後国 (Bungo-no-kuni) ぶんごのくに 大分県 多くのキリシタン大名が活躍した歴史を持ちます。
肥前国 (Hizen-no-kuni) ひぜんのくに 佐賀県・長崎県 唯一の海外窓口であった長崎の出島を含みます。
肥後国 (Higo-no-kuni) ひごのくに 熊本県 加藤清正が築いた熊本城が中心のエリアです。
日向国 (Hyūga-no-kuni) ひゅうがのくに 宮崎県 日本神話の舞台として有名な場所が多く存在します。
薩摩国 (Satsuma-no-kuni) さつまのくに 鹿児島県 明治維新を主導した強力な薩摩藩の地です。
大隅国 (Ōsumi-no-kuni) おおすみのくに 鹿児島県 日本初の人工衛星「おおすみ」の名の由来にもなりました。

 

豆知識:壱岐・対馬が「九国」に含まれなかった理由

ここで一つ、面白い豆知識をご紹介します。現在の長崎県に属する壱岐(いき)と対馬(つしま)は、地理的には九州地方の一部ですが、実は古代の「九国」には含まれていませんでした。では、なぜでしょうか。

その理由は、壱岐と対馬が持つ、極めて特殊で重要な役割にあります。この二つの島は、朝鮮半島と九州本土の間に位置し、古くから国防・外交・交易の最前線でした。そのため、律令制が定められた当時から九州本土の国々とは区別され、それぞれが独立した「壱岐国(いきのくに)」「対馬国(つしまのくに)」という一つの「国」として扱われていたのです。

これは決して二つの島が軽んじられていたわけではありません。むしろ逆で、大陸との緊張関係の中で常に最前線に立つという、その地政学的な重要性から、本土の国とは別の特別な行政単位とする必要がありました。「九州」という呼び名は、あくまで九州「本土」にあった9つの国を指す言葉だったのです。壱岐と対馬が「九国」に含まれなかった事実は、古代国家がこの二つの島をいかに戦略的な要衝として重視していたかを物語っています。

まとめ:九州の地名に隠された歴史のロマン

今回は、「九州は7県なのに、なぜ九の州なのか?」という疑問をテーマに、その由来と歴史を掘り下げてきました。

結論として、「九州」という名前は、約1300年前に律令国家が定めた9つの「令制国」に由来する、歴史の記憶を刻んだ地名です。その9つの国は、明治時代の「廃藩置県」という大きな変革を経て、現在の7つの県へと再編成されました。この名前と実態のズレは、古代から近代へと至る日本のダイナミックな歴史の変遷そのものを表しています。

この歴史を知ることで、九州を旅する際の景色が少し違って見えるかもしれません。福岡を訪れれば、そこが古代の商業都市「筑前」と豊かな農耕地「筑後」が一つになった場所だと感じられるでしょう。大分で「豊後牛」を味わうとき、その「豊後」という名前にキリシタン大名たちが活躍した時代を思い浮かべるかもしれません。

「九州」という一つの地名は、単なる地理的な呼称ではありません。それは、古代の国づくりから近代国家の誕生まで、1300年以上にわたる人々の営みと時代のうねりが凝縮された、壮大な物語への入り口なのです。次に九州を訪れる際は、ぜひその土地がかつて何という「国」だったのかに思いを馳せてみてください。きっと、旅がもっと味わい深いものになるはずです。

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