目次
明治維新期における身体性の変容と文明開化:髪型「ざんぎり」をめぐる社会力学的考察
1. 序論:明治という身体的革命の幕開け
明治維新は、単なる政治体制の変革にとどまらず、日本人の身体性や美意識の根本的な転換を迫る文化革命であった。その象徴として最も顕著に表れたのが、男性の髪型における「丁髷(ちょんまげ)」から「ざんぎり頭(散切り頭)」への移行である。この移行は、江戸時代という封建社会から近代国民国家への脱皮を視覚的に証明する儀式であり、個人の頭上において行われた革命であった。一般に「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という都々逸(どどいつ)で知られるこの現象は、表層的なファッションの変化として語られがちであるが、その実態は政治的強制、経済的混乱、宗教的抵抗、そしてジェンダー規範の再構築が複雑に絡み合う、極めて動的な社会現象であった。
本報告書は、競合する歴史的資料および当時の法令、新聞記事、風俗記録を包括的に分析し、ざんぎり頭がもたらした社会的衝撃とその普及プロセスを詳らかにするものである。特に、明治4年の「散髪脱刀令」から明治20年代の定着に至るまでの「移行のグラデーション」、福井県における「護法一揆」に代表される命がけの抵抗、そして女性の断髪禁止に見るジェンダーの二重基準について、詳細な考察を行う。
2. 「散髪脱刀令」の法理と政治的意図
2.1 強制なき革命:明治4年太政官布告の真意
明治政府が国民の髪型に介入した最初期の重要な法令は、明治4年8月9日(1871年9月23日)に太政官より発せられた「散髪脱刀令(散髪制服略服脱刀共可為勝手事)」である。歴史的通称として「断髪令」と呼ばれることが多いこの布告であるが、その条文には「勝手たるべし(自由にしてよい)」と記されており、決して断髪を強制する命令ではなかった点に注意が必要である。
この法令は、散髪(断髪)、制服・略服(洋服)の着用、そして華族・士族の脱刀を「自由」と定めたものであり、身分特権の象徴であった帯刀や髷(まげ)を個人の選択に委ねることで、四民平等の理念を視覚的に推進しようとする意図があった。しかし、政府が強制しなかったにもかかわらず、この布告は事実上の「文明開化への同調圧力」として機能し始める。幕末から明治にかけて西洋式軍制の導入が進む中で、すでに一部の層では髷を結わないスタイルが浸透し始めていたが、この布告はそれを追認し、加速させる触媒となったのである。
2.2 政治的リトマス試験紙としての髪型
明治初期の社会において、髪型は個人の政治的・思想的立場を表明する無言のプロパガンダとして機能していた。当時流行した都々逸は、髪型の違いを音に例え、その背後にあるイデオロギーを鋭く風刺している。
| 髪型 | 読み | 歌詞(叩いてみれば…) | 政治的・社会的象徴 | 詳細分析 |
| 半髪頭 | はんぱつあたま | 因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする | 旧守派・保守層 |
月代(さかやき)を剃り、髷を結った伝統的な丁髷スタイル。古い慣習に固執し、時代の変化を決断できない優柔不断な姿勢が嘲笑の対象となった。 |
| 総髪頭 | そうはつあたま | 王政復古(おうせいふっこ)の音がする | 尊王攘夷・復古派 |
月代を剃らずに髪を総なでにして後ろで束ねるスタイル。幕末の志士や浪人に多く、当初は維新の志士の象徴であったが、急速な西洋化の中で「過渡期」の象徴へと変化した。 |
| 散切り頭 | ざんぎりあたま | 文明開化(ぶんめいかいか)の音がする | 開化派・新政府支持層 |
髷を切り落とした洋風の短髪。新時代の到来を歓迎し、西洋文明を積極的に受容する進歩的態度の表れとされた。 |
この分類から読み取れるのは、明治初期の対立構造が単純な「髷 vs 断髪」ではなく、旧幕府的な「半髪」、王政復古を理想とする国粋的な「総髪」、そして西洋化を目指す「散切り」という三つ巴の状況にあったという事実である。特に「総髪」が王政復古の音とされている点は、維新の原動力となった尊王攘夷思想が、開国後はむしろ西洋化の阻害要因として「古いもの」扱いされつつあった政治的皮肉を映し出している。
3. 髷からザンギリへ:移行の技術論と身体的苦闘
3.1 磯田道史氏による「移行の3パターン」分析
長年親しんだ髷を切り落とし、西洋風の髪型へ移行することは、当時の男性にとって容易な決断ではなかった。特に技術的な障壁となったのが「月代(さかやき)」の存在である。頭頂部を剃り上げている丁髷の構造上、単に髷を切っただけでは西洋人のような均一な短髪にはならない。歴史学者の磯田道史氏は、当時の人々が直面したこの物理的課題に対し、以下の3つの移行法が存在したと考察している。
| 移行法 | 手法 | 社会的・心理的ハードル | 普及度合いの考察 |
| ① 坊主頭経由 | 全体を一度剃り、坊主にしてから伸ばす |
伸びかけの蓬髪(ほうはつ)状態を経る必要がある。江戸時代、蓬髪は非人や社会的に一人前でない者の象徴であり、強烈な心理的忌避感があった。 |
低い(心理的抵抗大) |
| ② 月代伸ばし経由 | まず月代を伸ばし、揃ってから髷を切る |
月代を剃らずに髪を伸ばす「総髪」や浪人風のスタイルを経由するため、最も自然で順当な方法であった。 |
最も高い(主流) |
| ③ 直切り(不揃い) | いきなり髷を切る |
月代部分がハゲたまま周囲だけ髪がある状態となり、落武者のような無様な姿になる。前頭・頭頂部が露出するため、美意識的に許容されがたい。 |
低い(美意識的抵抗大) |
磯田氏は、明治5年発行の『京都新報』の投書などを根拠に、②の「月代を伸ばしてから髷を切る」方法が最も一般的であったと推論している。幕末の動乱期において、すでに貧しい浪人などが月代を剃らずに総髪にしていた背景もあり、総髪を経由してザンギリへと移行するプロセスは、社会的な違和感を最小限に抑える現実的な解であった。
3.2 理髪業の黎明と「耳切り」の恐怖
髪型の変化は、産業構造の劇的な転換をもたらした。江戸時代の「髪結床(かみゆいどこ)」は、日本髪を結う技術に特化していたため、鋏(ハサミ)を使って髪を刈り込む西洋理髪(散髪)の技術は未知の領域であった。
横浜や大阪の外国人居留地では、外国人の理髪師から技術を学んだ先駆的な日本人理髪師が登場し、西洋理髪の普及に貢献した。しかし、需要の急増に伴い、十分な修行を積まずに見よう見まねで開業する者も続出した。当時の記録によれば、繁盛している理髪店を窓の外から覗いただけで、鋏と櫛を揃えて「西洋理髪業」に転身した髪結床も存在したという。
このような「にわか理髪師」による施術は、顧客にとって命がけの体験であった。鋏の扱いに不慣れなため、髪を虎刈りにするだけでなく、客の耳を切り落とすという凄惨な事故が頻発した3。当時の新聞投書欄には、こうした事故への苦情や警告が掲載されており、文明開化の痛みが文字通り身体的な痛みとして刻まれていたことがわかる。
3.3 理髪料金と経済モデルの変容
理髪業の近代化は、料金体系や経営モデルにも変化をもたらした。明治初期の理髪店の価格表には、「金六拾二銭五厘」という価格設定が見られる。興味深いのは、これが単発の料金ではなく、1年契約などの長期契約に基づく提案が含まれていた点である。
江戸時代の髪結は、盆暮れの付け届けや年間契約的な「髪結銭」で生計を立てる場合が多く、その商習慣が明治初期の理髪店にも引き継がれていた可能性がある。同時に、現金による明朗会計への移行も進んでおり、近代的なサービス業としての萌芽が見て取れる。
4. 普及の起爆剤:明治天皇の断髪とその影響
明治4年の散髪脱刀令以降も、庶民の間では様子見の空気が濃厚であった。特に地方や保守的な層においては、「親からもらった髪を切るなど言語道断」という儒教的倫理観や、丁髷への愛着が根強かった。この停滞を打破し、ザンギリ頭を一気に国民的スタンダードへと押し上げた最大の要因は、天皇の身体的変容であった。
明治6年(1873年)3月、明治天皇が断髪を断行した。現人神であり、国家の中心である天皇がザンギリ頭になったという事実は、官吏や軍人だけでなく、一般庶民に対しても強烈なメッセージとなった。「天皇陛下が髪を切られた以上、髷を結っているのは不敬であり、時代遅れである」という認識が広まり、これ以降、日本全国で雪崩を打ったように断髪が進んだ3。
明治20年頃には、東京府においては大半の男性がザンギリ頭になったとされるが、地域差は依然として大きかった3。この「天皇の断髪」から「全国的な普及」までのタイムラグ(約10〜20年)は、日本近代化の進度が地域や階層によって不均一であったことを示唆している。
5. 文明開化への抵抗:越前護法一揆と血塗られた断髪
文明開化は、すべての国民に歓迎されたわけではない。特に地方農村部において、断髪令は徴兵令や学制、改暦、地租改正といった一連の近代化政策と同様に、「伝統的生活の破壊」や「過重な負担」として受け止められた。その反発が最も激しい形で噴出した事例の一つが、福井県(当時の敦賀県・足羽県等)で発生した「越前護法一揆」である。
5.1 一揆の背景:信仰の危機と経済的圧迫
福井県(越前地方)は、浄土真宗の信仰が篤い「真宗地帯」として知られる。明治政府が進める廃仏毀釈や、キリスト教(ヤソ教)の解禁といった宗教政策に対し、この地域の人々は強い危機感を抱いていた。断髪もまた、伝統的な仏教徒としてのアイデンティティを脅かす西洋化の一環と見なされたのである。
さらに、経済的な圧迫が一揆の土壌を形成していた。明治4年、政府は旧来の税制を改革し、石代納(米ではなく現金での納税)を許可したが、実際の運用は地域によって異なり、混乱を招いていた6。福井県内では、貢米の升(ます)の統一や、地価の決定方法(地価取調規則)の変更が相次ぎ、農民たちの不信感は頂点に達していた。特に、地券の発行に伴う検地への恐怖が、古くからの「検地=増税」という記憶を呼び覚まし、疑心暗鬼を生んでいた。
5.2 暴発する怒り:明治6年の大反乱
明治6年3月、大野郡、坂井郡、今立郡などの農民たちがついに蜂起した。彼らは竹槍や棒を持って集結し、断髪を推進する戸長や区長の居宅、学校、郵便局、役所などを次々と襲撃・焼き討ちした。
一揆勢が掲げた要求は、彼らの不安の根源を如実に物語っている。
-
「ヤソ教を越前国に布教しないこと」
-
「法談(仏教の説教)を許可すること」
-
「学校では洋学を禁止すること」
ここで注目すべきは、断髪そのものへの言及と並んで、「洋学の禁止」や「キリスト教排斥」が掲げられている点である。彼らにとってザンギリ頭は、キリスト教や西洋文明という「異質なもの」の侵入を象徴する記号であり、それを拒絶することは、自らの信仰と共同体を守るための聖戦(護法)であった。
5.3 鎮圧と処罰:近代国家の暴力装置
政府(敦賀県庁)の対応は苛烈を極めた。士族による鎮圧隊を編成して現地に派遣し、武力によって一揆を鎮圧した。その後の処罰は、明治政府の威信をかけた見せしめ的な色彩を帯びていた。
-
処刑: 首謀者とみなされた大野郡の指導者ら6名は、裁判による極刑を言い渡された後、即刻処刑された。
-
大量処罰: 拷問に近い取り調べが行われ、有罪とされた者は約8,400人に達した。その多くには懲罰金が科された。
-
連帯責任: 一揆に関係した村々(大野郡135村、今立郡75村など)の住民合計8,028人に対し、竹槍所持者は3円、不所持者は2円25銭という巨額の懲罰金が課された。
当時の3円は、庶民にとって極めて重い負担である。この事件は、ザンギリ頭という「文明の象徴」が、地方においては血と暴力によって強制的に植え付けられた側面を持つことを歴史に刻んでいる。一部の地域では、警察官が路上で丁髷の者を捕らえて無理やり髪を切ったり、丁髷に課税したりといった強硬手段も取られており、断髪は国家権力が個人の身体を管理下に置くプロセスの最前線であったと言える。
6. ジェンダーと断髪:「女子断髪禁止令」のパラドックス
男性に対しては断髪が文明化の証として推奨(あるいは強制)された一方で、女性に対しては全く逆のベクトルで身体規制が行われたことは、明治政府のジェンダー観を理解する上で極めて重要である。
6.1 明治5年「女子断髪禁止令」
明治4年の散髪脱刀令を受けて、進取の気性に富んだ一部の女性たちが自ら髪を切り、ザンギリ頭にする事例が現れた。しかし、政府はこれに敏感に反応した。明治5年(1872年)4月5日、東京府などは**「女子断髪禁止令」**を発布し、女性が理由なく髪を短く切ることを禁じたのである。
6.2 「男ごとき」姿への嫌悪と家父長制の維持
なぜ男性の断髪は「文明」で、女性の断髪は「禁止」だったのか。その背景には、急速な西洋化の中で「男らしさ」「女らしさ」の境界が揺らぐことへの政府高官たちの根深い恐怖があったと考えられる。
当時の論調や布告の背景には、以下のような論理が働いていた。
-
ジェンダー規範の逸脱: 女性が髪を切ることは、外見的に男性に近づくことを意味し、それは伝統的な性役割の攪乱とみなされた。「心理的にも男みたいになってしまう」という懸念が、真剣に議論されていたようである。
-
伝統美の固守: 「緑の黒髪」という言葉に象徴されるように、長い髪は日本人女性の美徳の根幹とされていた。西洋化を進める一方で、女性に対しては「日本の伝統」の守り手としての役割を固定化しようとする二重基準が存在した。
実際に女性の間で、西洋風の髪型(束髪など)が広く受け入れられるようになるのは、明治18年の「婦人束髪会」の結成以降であり、ショートカット(断髪)がファッションとして市民権を得るには、大正末期の「モダンガール(モガ)」の登場を待たなければならなかった。明治初期における女性のザンギリ頭は、男性以上に急進的で反逆的な行為だったのである。
7. 結論:髪に宿る明治の精神史
「ざんぎり頭」をめぐる一連の歴史的動向を俯瞰すると、それが単なるヘアスタイルの流行史ではないことが明確になる。それは、明治という時代が抱えた矛盾とエネルギーが凝縮された一点であった。
-
身体の国有化: 江戸時代まで各身分や共同体に帰属していた身体は、断髪令を通じて「国民」という均質な単位へと再編された。
-
まだらな近代化: 天皇の断髪によるトップダウンの普及と、福井の一揆に見られるボトムアップの抵抗、そして磯田氏が指摘する技術的な試行錯誤は、近代化が一朝一夕になされたのではなく、地域や階層による大きなタイムラグと摩擦を伴いながら進行したことを示している。
-
ジェンダーの非対称性: 男性には変化を求め、女性には不変を求めた政府の態度は、近代日本社会における家父長制的なジェンダー構造の原点を示唆している。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という軽快なリズムの裏には、不慣れな鋏で耳を切られた庶民の痛み、焼き討ちされた役場の煙、そして「女らしさ」の檻に留め置かれた女性たちの沈黙が存在した。ザンギリ頭とは、近代日本が産声を上げる際の、希望と苦痛が混じり合った象徴的な傷跡なのである。
↓こちらも合わせて確認してみてください↓
↓YouTubeで動画公開中♪↓
↓TikTokも更新中♪↓
↓お得商品はこちらから♪↓