目次
江戸時代のトイレは「宝の山」だった?驚きのサステナブル社会を徹底解説
1. はじめに:なぜ江戸時代のトイレが現代の私たちを魅了するのか
江戸時代の暮らしと聞くと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。ちょんまげを結った侍、華やかな着物をまとった町娘、活気あふれる宿場町など、時代劇で描かれる世界を思い浮かべるかもしれません。しかし、その華やかな文化の裏側で、江戸が当時世界最大級の人口を誇る巨大都市でありながら、驚くほど清潔な環境を維持していたという事実は、あまり知られていないのではないでしょうか。
18世紀には人口100万人を超えていたと推定される江戸の町は、同時期のヨーロッパの都市とは比較にならないほどの衛生レベルを誇っていました。幕末に日本を訪れた多くの外国人が、その街並みの美しさと清潔さに驚嘆の声を上げた記録が残されています。この驚異的な清潔さを支えていたものこそ、現代の私たちが目標とするSDGs(持続可能な開発目標)を遥かに先取りした、徹底的なリサイクル社会の仕組みでした。
そして、その循環型社会のまさに中心的な役割を担っていたのが、意外にも「トイレ」だったのです。江戸の人々にとって、トイレから出る排泄物は決して汚いごみではなく、価値ある「資源」でした。この記事では、単なる昔の生活様式としてではなく、現代社会が学ぶべき知恵と工夫に満ちた「江戸時代のトイレ」の全貌を、具体的な数字や事例を交えながら、深く掘り下げて解説していきます。
2. 「お宝」と呼ばれた排泄物:江戸時代のトイレが生み出す驚きの価値
2-1. なぜただの排泄物が「黄金」だったのか?究極の肥料「下肥(しもごえ)」の秘密
現代の私たちにとって、排泄物は処理すべき汚物という認識が一般的です。しかし、江戸時代の人々にとって、それは「黄金」とも呼ばれるほどの価値を持つ、非常に重要な資源でした。その理由は、排泄物が「下肥(しもごえ)」と呼ばれる、農作物を育てるための究極の肥料として利用されていたからです。
化学肥料が存在しなかった当時、都市の膨大な人口を支える食料を生産するためには、土地の栄養を補う肥料が不可欠でした。人々の排泄物には、植物の成長に欠かせない窒素やリンといった栄養素が豊富に含まれており、これを利用することは農業生産性を飛躍的に向上させるための最も効果的な手段だったのです。この知恵は古くから存在し、鎌倉時代後期にはすでに利用が始まっていたとされ、戦国時代には一般的なものとなっていました。そして、江戸に100万人以上の人々が集中したことで、食料需要が爆発的に増加し、それに伴って下肥の需要もかつてないほど高まったのです。
農家では、畑の脇に「肥だめ」と呼ばれる穴を掘り、収集したし尿をそこで一定期間貯蔵しました。この過程でし尿は発酵・熟成し、寄生虫の卵などが死滅した安全な肥料へと変化します。江戸の人々の営みが、形を変えて再び食料となり、都市の暮らしを支えるという、見事な循環が確立されていました。
2-2. 身分で値段が変わる!?大名屋敷から長屋まで、下肥の格付け一覧
江戸時代の下肥の取引で特に興味深いのは、誰の排泄物かによって価値が異なり、明確な「格付け」が存在したという事実です。これは、食べるものの質が肥料としての効果に直結すると、当時の人々が経験的に理解していたことを示しています。栄養価の高い食事をしている人々の排泄物は、それだけ良質な肥料になると考えられ、高値で取引されました。
具体的にどのような格付けがあったのか、以下の表にまとめてみました。
ランク | 名称(通称) | 由来 | 価値の理由 | 関連情報 |
最高級 | きんばん | 大名屋敷(特に男子) | 栄養豊富で贅沢な食事を反映し、肥料効果が最も高いとされた。 | 明治以降、軍隊の兵舎から出るものも同様に上物として扱われた。 |
上級 | 辻肥(つじごえ) | 町の四辻などに設置された公共の共同便所 | 比較的裕福な町人の食生活を反映しており、質が高いと見なされた。 | 農民が自ら設置し、無料で利用させる代わりに排泄物を回収した。 |
中級 | 町肥(まちごえ) | 長屋などの一般庶民の共同便所 | 江戸の一般的な庶民の食事を反映した、標準的な品質の下肥。 | 最も流通量が多く、江戸の農業を支える基本となった。 |
下級 | たれこみ | 尿の割合が多く、水分が多いもの | 肥料成分が薄いと判断され、あまり歓迎されなかった。 | |
最下級 | お屋敷 | 監獄などから出るもの | 質素な食事のため、肥料としての価値が低いと見なされた。 |
このように、下肥の価格は江戸の社会階級や食文化を如実に映し出す鏡のような存在でした。農民たちは、より良い作物を育てるために、少しでも質の高い下肥を求めてお金を支払ったのです。この経済原理が、江戸の町から排泄物を効率的に回収する大きな動機付けとなりました。
2-3. 大家さんは笑いが止まらない?長屋のトイレがもたらす莫大な利益
下肥が価値ある商品であったことは、庶民が暮らす長屋の経営にも大きな影響を与えていました。長屋に設置された共同トイレから出る排泄物の所有権は、部屋を貸している大家にあったのです 7。大家は、この権利を利用して下肥を農家や専門業者に売却し、 substantial な収入を得ていました。
記録によれば、20人から30人ほどが暮らす一般的な規模の長屋の場合、下肥の売却による利益は年間で1両から2両に達したといいます 7。当時の1両の価値を現代の金額に換算すると、お米の価格や大工の日当などから様々な説がありますが、一般的に約10万円前後と見積もられています 11。つまり、大家はトイレから年間10万円から20万円もの副収入を得ていた計算になります。これは、決して少なくない金額であり、家賃収入を補う重要な収益源でした。
たとえ店子が家賃を滞納することがあっても、人々が毎日排泄をすることは止められません。そのため、下肥の売却益は大家にとって非常に安定的で確実な収入であり、長屋経営の根幹を支える重要な要素だったのです 9。この仕組みがあったからこそ、大家は積極的にトイレの維持管理を行い、結果的に長屋全体の衛生環境が保たれるという好循環が生まれていました。
3. 江戸を支えた究極のリサイクルシステム!「下物屋」の仕事とは
3-1. 江戸の町を駆け巡る専門業者「下物屋(しもごえや)」の実態
江戸の町から毎日大量に生み出される下肥を、効率よく回収し、農村へと届ける。この重要な役割を担っていたのが、「下物屋(しもごえや)」や「年頃(ねんごろ)」などと呼ばれた専門の回収業者たちです 5。彼らは、江戸の循環型社会を支える、いわば物流のプロフェッショナルでした。
下物屋の仕事風景としてよく描かれるのは、天秤棒の両端に大きな桶を吊るし、それを肩に担いで町中を練り歩く姿です。彼らは各家庭や長屋と契約を結び、定期的にトイレを巡回しては、溜まったし尿を巧みに桶へと汲み取っていきました。この作業は、都市の衛生を維持するという公衆衛生の側面と、農村に不可欠な資源を供給するという経済活動の側面を併せ持っていました。
彼らの存在なくして、江戸の巨大な人口を支える食料生産は成り立ちませんでした。下物屋は、都市と農村をつなぐ大動脈として、江戸の社会システムに欠かせない重要な機能を果たしていたのです。
3-2. 陸路か水路か?効率を極めた下肥の輸送ネットワーク
下物屋によって回収された下肥は、江戸の周辺に広がる広大な農村地帯へと運ばれていきました。その輸送方法は、目的地の地理的な条件に応じて巧みに使い分けられており、江戸の高度な物流ネットワークを物語っています。
- 陸運(馬・荷車)江戸の西側に位置する武蔵野台地などの農村(西郊)へは、主に馬や荷車を使った陸路での輸送が行われました。街道を通り、肥桶を積んだ荷車が農村を目指す光景は、日常的なものでした。
- 水運(舟)一方、江戸の東側や南側に広がる低湿地帯の農村(東郊)へは、網の目のように張り巡らされた堀や川を利用した舟運が主流でした。舟を使った輸送は、一度に大量の下肥を少ない労力で運ぶことができるため、陸運に比べて格段に効率的でした。下肥を積んだ「汚穢船(おわいぶね)」が水路を行き交い、江戸の農業生産を力強く支えていたのです。
このように、陸路と水路を効果的に組み合わせることで、江戸という巨大都市から生まれる資源を、無駄なく広範囲の農地へ届ける輸送システムが確立されていました。
3-3. 年間取引額は35億円以上?巨大市場を動かした「下肥問屋」
下肥の取引は、個々の下物屋と農家の間だけで行われていたわけではありません。そこには「下肥問屋」と呼ばれる仲買業者や卸売業者が介在し、大規模で組織的な市場が形成されていました。彼らは、江戸各地から下肥を買い集め、それを船に積んで農村に運び、現地の農家に販売する、いわば下肥ビジネスの中核を担う存在でした。
この市場の規模がどれほど巨大だったかを示す、驚くべき記録が残っています。天保年間(1830~1844年)の江戸における下肥の年間取引総額は、なんと3万5千490両にものぼったとされています。前述の通り、1両を約10万円で換算すると、これは現在の価値で約35億4900万円に相当します。たかが排泄物と侮ることはできません。そこには、現代の私たちも驚くような巨大な経済圏が広がっていたのです。
市場が活発になれば、価格の変動も起こります。農村での需要が高まると下肥の価格は高騰し、時には農民たちが値上げに反対する運動を起こすことさえありました。この事実は、下肥が単なる廃棄物ではなく、人々の生活に直結する重要な「商品」として確立していたことを明確に示しています。
4. 武士と庶民でこんなに違う!江戸時代のトイレのリアルな姿
4-1. 長屋の共同トイレ事情:プライバシーよりもコミュニティ
江戸の人口の多くを占めた庶民は、「長屋」と呼ばれる集合住宅で暮らしていました。彼らのトイレは、各戸に設置されているわけではなく、路地の奥などに設けられた共同トイレを使うのが一般的でした。この共同トイレは「後架(こうか)」や「雪隠(せっちん)」などと呼ばれていました。
これらのトイレは、悪臭や汚れが住居スペースに入り込むのを防ぐため、母屋から少し離れた屋外に設置されるケースがほとんどでした。プライバシーへの配慮は現代ほどではなく、外から中がある程度見えてしまう半ドアのような構造も珍しくありませんでした。しかし、このような開かれた空間は、逆に住民同士のコミュニケーションの場となる側面もあったようです。
共同トイレの清潔を保つことは、住民全員の課題でした。掃除は住民たちが当番制で行うのが一般的で、こうした共同作業を通じて、利用のマナーや衛生に対する意識が自然と育まれていきました。長屋のトイレは、単なる用を足す場所ではなく、江戸の庶民のコミュニティ意識を形成する上でも重要な役割を果たしていたのです。
4-2. 武家屋敷のトイレ:衛生と防犯を兼ね備えた構造
一方、武士が住む武家屋敷のトイレは、庶民の長屋とは大きく異なる特徴を持っていました。まず、トイレは母屋から離れた場所に、独立した建物として建てられているのが基本でした。これは、長屋と同様に臭いを遠ざけるという衛生上の目的がありましたが、それに加えて武家ならではの重要な理由、すなわち「防犯」の目的も兼ね備えていました。
敵がトイレの汚物溜めから屋敷内に侵入する、といった事態を防ぐため、トイレの構造には様々な工夫が凝らされていました。床は全体が板敷きになっており、中央に長方形の穴が開けられています。その真下には、排泄物を溜めるための木製や陶器製の大きな壺、「屎瓶(しびん)」が埋め込まれていました。
汲み取り作業は、大家が管理する長屋とは異なり、屋敷が直接契約した「下掃除人」と呼ばれる専門の業者が、月に2回から3回ほどの頻度で定期的に行っていました。武家屋敷のトイレは、衛生的な配慮と、常に敵の襲来を想定する武士の心構えが反映された、機能的な空間だったのです。
4-3. 将軍様のトイレは健康管理の最前線だった
江戸の頂点に立つ将軍のトイレとなると、その設えは武家屋敷のものとも全く異なる、特別なものでした。江戸城にあった将軍専用のトイレは「御用場(ごようば)」と呼ばれ、そこは単に排泄をする場所ではなく、将軍の健康を管理するための最前線の施設でもあったのです。
驚くべきことに、将軍は据え付けの便器を使うのではなく、「御樋箱(ごひばこ)」と呼ばれる、漆塗りの引き出しが付いた箱型のおまるを使用しました。将軍が用を足し終えると、側近の者がすぐにその引き出しを抜き取り、和紙を敷いた新しいものと交換します。そして、抜き取られた排泄物は、そのまま将軍の健康を管理する専門医である「奥医師」のもとへ運ばれました。奥医師は、毎日その色や形、匂いなどを詳細に観察し、将軍の体調に変化がないかを厳しくチェックしていたのです。まさに「お便りは健康のバロメーター」という言葉を、江戸城では国家の最重要事項として実践していました。
さらに、御用場には常に侍従が控え、冬には火鉢を置いて部屋を暖め、夏には扇子で風を送って涼しくするなど、将軍が少しでも快適に用を足せるよう、至れり尽くせりの環境が整えられていました。将軍のトイレは、その健康と権威を守るための、極めて高度なシステムだったと言えるでしょう。
5. トイレットペーパーから掃除方法まで!江戸のトイレ衛生事情
5-1. 紙は高級品!「浅草紙」登場以前のお尻の拭き方
今では当たり前に使っているトイレットペーパーですが、江戸時代、特にその初期において紙はまだ貴重品であり、庶民が気軽に使えるものではありませんでした。では、人々は用を足した後、どのようにしてお尻を拭いていたのでしょうか。その答えは、「籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)」と呼ばれる道具にあります。
籌木とは、「くそべら」とも呼ばれる細長い木の板のことで、人々はこの板を使って汚れを拭い取っていました。使用後は、洗って何度も再利用することもあったといいます。木の感触は決して快適ではなかったかもしれませんが、これが当時のスタンダードな後始末の方法でした。
庶民が日常的に紙を使えるようになるのは、江戸時代中期以降、安価な再生紙が広く流通するようになってからのことでした。紙の普及は、江戸の人々の衛生観念を大きく向上させる画期的な出来事だったのです。
5-2. 浅草紙とは?江戸のエコなリサイクルペーパー
江戸時代のトイレットペーパーとして、庶民の暮らしに革命をもたらしたのが「浅草紙(あさくさがみ)」です 21。これは、現代でいう再生紙(リサイクルペーパー)であり、江戸の徹底したリサイクル文化を象徴する製品の一つでした。
浅草紙の原料となったのは、商家で使われた大福帳や手紙など、一度使われた「反故紙(ほごがみ)」です 20。これらの古紙を回収し、水に浸してドロドロに溶かし、それを再び漉き直すことで作られました。製造工程は非常にシンプルで、インクを完全に脱色するような技術はなかったため、出来上がった紙は灰色がかっていました。よく見ると、元の紙に書かれていた墨の文字の断片や、製造過程で混じり込んだ髪の毛などが見えることもあったといいます 21。
もちろん、何かを書くための高級な和紙とは全く異なります。しかし、鼻をかむための「鼻紙」や、トイレで使う「落とし紙」として、その安さと実用性から庶民に広く受け入れられました 22。浅草紙の普及は、江戸の人々の生活をより清潔で快適なものに変え、江戸が世界有数の衛生都市となるための重要な基盤となったのです。
5-3. 臭い対策はどうしてた?炭や松葉を使った先人の知恵
汲み取り式のトイレで最も悩ましい問題といえば、やはり「臭い」です。電気式の換気扇も化学的な消臭剤もない江戸時代、人々はどのようにしてこの不快な臭いと戦っていたのでしょうか。そこには、自然の力を巧みに利用した、先人たちの様々な知恵がありました 5。
最も一般的な方法は、消臭効果のあるものを便壺に直接撒くことでした。
- 炭や灰: 木炭や燃え殻の灰には、臭いを吸着する効果があります。これらを定期的に撒くことで、悪臭の発生を抑えました。
- 松葉: 松の葉には殺菌作用や消臭効果があるとされ、これもまた臭い対策に用いられました 5。
- お茶の出がらし: お茶の葉にも消臭効果があるため、飲み終わった出がらしを乾燥させて撒く家庭もありました。
また、こうした直接的な対策に加え、トイレの設置場所そのものにも工夫がありました。できるだけ母屋から離し、風通しの良い場所にトイレを設けることで、臭いがこもるのを防いでいたのです。これらの素朴ながらも効果的な知恵の積み重ねが、江戸の町の快適な生活環境を支えていました。
6. 世界が驚愕!同時期のヨーロッパとは比較にならない江戸の衛生レベル
6-1. 「大悪臭」に苦しむロンドンとパリ:汚物にまみれた街の実態
江戸が循環型システムによって驚異的な清潔さを保っていた頃、同じ時代のヨーロッパの大都市は、全く異なる状況にありました。18世紀から19世紀にかけて、産業革命によって人口が急増したロンドンやパリの衛生状態は、現代の感覚では想像を絶するほど劣悪だったのです 23。
当時のヨーロッパの都市には、まだ本格的な下水道システムは存在しませんでした。人々は、おまるに溜まった汚物を窓から道端へ平気で投げ捨てており、街路は文字通り糞尿とゴミで溢れかえっていました 25。雨が降れば道はぬかるみ、街全体に強烈な悪臭が立ち込めていたといいます。香水がヨーロッパで発達した理由の一つは、この体臭や街の悪臭をごまかすためだった、という説もあるほどです。
都市を流れる川も、その役割は江戸とは正反対でした。ロンドンのテムズ川やパリのセーヌ川は、生活排水や工場の廃棄物を垂れ流す、いわば「開かれた巨大な下水道」と化していました 24。特に1858年の夏、記録的な猛暑に見舞われたロンドンでは、干上がったテムズ川から発生した汚物の臭気が耐え難いレベルに達し、議会が機能停止に陥るほどの事態となりました。この事件は「大悪臭(The Great Stink)」として歴史に名を刻んでいます。
そして、最も深刻だったのは、人々が汚染された川の水を飲み水として利用していたことです。これにより、コレラなどの水系感染症が繰り返し大流行し、1848年や1853年の流行では、ロンドンだけでそれぞれ1万人以上の命が奪われるという悲劇が起きました。
6-2. なぜ江戸ではペストが流行しなかったのか?
江戸の衛生レベルの高さを考える上で、もう一つ注目すべき点があります。それは、中世以降ヨーロッパで何度も猛威を振るい、人口の3分の1が死亡したとも言われる伝染病「ペスト」が、日本では江戸時代まで大規模に流行することがなかったという事実です。
この理由については様々な要因が考えられますが、都市の衛生環境の違いが大きく影響したことは間違いありません。ペストは、主にネズミを介して広がる病気です。糞尿やゴミが放置された不衛生なヨーロッパの都市は、病原菌を運ぶネズミにとって格好の繁殖場所となっていました。
対照的に、江戸では排泄物は「商品」として徹底的に回収・管理され、街は清潔に保たれていました。このような環境は、ネズミが大量に繁殖するのを抑制し、結果としてペストのような疫病が大規模に蔓延するリスクを低減させる一因となった可能性が十分に考えられます。江戸のトイレを中心としたリサイクルシステムは、単に街をきれいにするだけでなく、人々の命を疫病から守る巨大な防疫システムとしても機能していたのです。
6-3. 世界トップクラスの上下水道インフラ
江戸の衛生レベルを支えていたのは、し尿処理システムだけではありませんでした。人々が生活に使う水を供給する「上水道」と、雨水などを排水する「下水道」のインフラも、当時としては世界最高レベルに整備されていたのです。
徳川家康が江戸に入府して以降、大規模な都市計画が進められ、神田上水や玉川上水といった巨大な上水道が次々と建設されました。多摩川などから取り込まれた清浄な水は、木製の水道管(木樋)を通って江戸市中の隅々にまで供給され、その総延長は150kmにも及んだといいます。
一方で、下水道も整備されていましたが、その目的はヨーロッパとは根本的に異なりました。江戸の下水道は、主に雨水を速やかに堀や川へ流し、浸水を防ぐためのものでした。重要なのは、この下水道にし尿などの汚水が流れ込むことはなかったという点です。清潔な上水と、雨水を流すための下水、そして資源として回収されるし尿。この3つを明確に分離する「分別」の思想こそが、江戸を世界一清潔な都市たらしめた、最大の秘訣だったと言えるでしょう。
項目 | 江戸 | ロンドン・パリ(18~19世紀) |
し尿処理 | 資源として回収・売却し、肥料として再利用した。 | 路上や河川へ直接投棄していた。 |
下水道 | 主に雨水排水を目的とした暗渠(あんきょ)を整備した。 | 未整備、または汚物を河川へ流すための放流管として機能した。 |
水源 | 玉川上水など、清潔な上水道を整備し、安全な水を供給した。 | 汚物でひどく汚染された河川水(テムズ川など)を飲用していた。 |
街の清潔度 | 来日した外国人が驚嘆するほど清潔だった 3。 | 強烈な悪臭が立ち込め、街路は糞尿まみれだった。 |
主な伝染病 | コレラ(幕末開国後)、天然痘。 | コレラ、ペスト、腸チフスなどが繰り返し大流行した。 |
7. まとめ:江戸時代のトイレから学ぶ、持続可能な未来へのヒント
ここまで見てきたように、江戸時代のトイレ事情は、単なる過去の興味深い生活文化というだけでは片付けられません。それは、都市が生み出すものを決して「ごみ」とせず、全てを資源として捉え、完璧に循環させることで成り立っていた、完成されたサステナブル社会の縮図そのものです。
排泄物という、最も厄介で不衛生になりがちなものを、「お金になるお宝」へと転換させた発想。そして、その経済的なインセンティブを利用して、都市全体の衛生を維持するという、極めて合理的で洗練された社会システム。そこには、現代の私たちが学ぶべき多くの知恵が詰まっています。
下水処理に膨大なエネルギーとコストを費やし、依然として多くの廃棄物問題に直面している現代社会にとって、江戸の暮らしは、ごみを資源として捉え直すことの重要性や、自然と共生する持続可能な社会を構築するための大きなヒントを与えてくれます。江戸時代のトイレを知ることは、私たちの暮らしの原点を見つめ直し、より良い未来を考える上で、非常に価値のある学びとなるに違いありません。
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